サイバーカスケード/政治/言論

サイバーカスケードは、ネットの特性というよりは人間の特性だ。人間は、共振する場を求めて群れる傾向を本能的に持っている。そして、ネットはその傾向を顕在化するメディアである。

ネットには群れるためのスペースが無限にあり、細分化した場をたくさん作ることができる。そのことによって、人間が昔から持っていた本能をネットは解き放ってしまった。

しかし、リアルワールドは、ネットのように簡単には分割できない。我々は、いやでもひとつのリアルワールドを共有しなくてはならない。リアルワールドを共有する方法は「政治」である。

多数決も市場も選挙も、共有されたリアルワールドに対して特定のあり方を強要する。そこにはバーチャルワールドのような寛容さはない。選択された選択肢に納得できない人にとっては、その選択は強権的な権力である。常に「政治」をそのように受け取る人は存在する。

サイバーカスケードによって、思いはそれぞれの方向に散らばり、リアルワールドとの接点に、たくさんの葛藤を捲き起こす。サイバーカスケードと「政治」は宿命的に対立しているかのようだ。

私は、「言論」がその対立を緩和し解消する可能性があると思う。いや、「言論」というものをそのように定義したい。

「言論」とは、自分が何者であるかを表現する行為だ。そして、自分が何者であるかは、常に異質な者に問うことで明らかになる。サイバーカスケードの中にひとつの幸福が存在しているが、そこでは自分が何者であるかを問うことはできない。自分が何者であるかを問うことも、群れることと同様、人間に本能的に与えられた欲求である。

「言論」は「政治」の力でサイバーカスケードを抑えこむことでなく、それを全面的に解き放つことで生まれる。群れの中に全面的に没入して初めて、人は自分が何者であるか問いはじめる。その言葉は、群れの外に向けられる。

そして、異質な外部からやってきた言葉によって、人は自分が何者であるかを知る。そこにもうひとつの「言論」が生まれる。

「言論」とは、言葉に言葉が響きあい、互いに自分を知ることを無限に繰り返すプロセスだ。それは、永遠に結論には到達しない。「言論」を意思決定に使うことはできない。しかし、「言論」は群れと群れをつなげ、サイバーカスケードと「政治」をつなげることができる。「言論」は、空虚な権力である「政治」に内実を与える。

リアルワールドが存在しなかったとしたら、「政治」は不要であり存在しないだろう。しかし「言論」は存在するだろう。たとえバーチャルワールドが人間にとっての世界全体を意味するようになっても、人間が人間である限り、人間は自分が誰であるかを自らに問い「言論」が生まれるだろう。

「言論」を背景としない「政治」は空虚で不安定だ。そのことをネットはあからさまにした。内在的な本能であるサイバーカスケードを「政治」は抑えこむことができない。もうひとつの内在的なプロセスである「言論」を出現させることが必要なのである。

そして、「言論」の為のルールはたったひとつだ。自分が隠れたまま、誰かの言葉をねじまげようとしてはいけない。それはもっともたちの悪い「政治」であり、「言論」から一番遠いものだ。

「言論」に参加する者は、自らを明らかにする。自分の発する言葉によって、自分が何者であるかを表明する。そのことから逃げてはいけない。それが「言論」のたったひとつのルールであり、目的なのである。