内なる「日本教の宗教保守層」

墓を暴く!(「飛鳥とは何か」梅原 猛著、抜粋)より


古代日本人にとって、古代中国人にとってと同じく、墓を暴くことは、その死者に対すると共にその死者の子孫に対する最大の侮蔑(ぶべつ)を意味している。

「死者の子孫に対する侮蔑」という所が重要で、儒教的世界観の中では、お墓に対する態度が、単なる過去に対する感傷ではなくて、政治的な意思表明、今自分が立っている政治的立場の明確化とされるのである。

日中対立の深層はこの感情にかかわる宗教問題ではないだろうか。

中国の国民感情を極端に言えば、靖国神社A級戦犯の「墓を暴け」ということになるのかもしれない。そして、これに「A級戦犯は悪人ではない」と答えると問題は政治的な対立となるが、「A級戦犯は悪人だが墓を暴くのはやりすぎ」と答えると、これは、中国の人の宗教的な感情を害するのではないだろうか。

つまり、「A級戦犯は悪人ではないから墓を暴く必要はない」というスタンスの人は、「墓守りは政治的な意思表明でありそこには強く一貫性が求められる」という儒教的思想を中国の人と共有している。少なくとも、相手にはそのように映る。

もちろん、この場合でも非常に大きな反発があって対立は深刻化するだろうが、そこには、儒教の政治宗教的世界観を崩す要素はない。その場合の対立は世俗的なものであり、利害関係による取引きや妥協が可能であり、問題を先送りしても感情的な鬱積はない。

しかし、「戦後の日本は戦前と断絶しているけど墓を暴くのは嫌だ」と言うことは、政治的な立場と墓守りという宗教的行為を切離すという意味である。「A級戦犯は悪人だが墓を暴くのはやりすぎ」という考えの人間が存在するということは、「墓守」という行為を軽視するように映るのではないだろうか。そしてそれは、彼らの立っている世界観の根本を壊すものになるのかもしれない。

儒教は現世的で、他の宗教と比較して政治や倫理と強く結びついているが、それでも宗教である以上、無意識的なレベルでは世界観の基盤となっていて、そこに対する脅威には、強い感情的な反発が生じる。「墓守」という行為を侮辱することは、イスラム教徒がコーランを侮辱されたり、キリスト教徒が十字架を侮辱されるような意味があるのかもしれない。

それで、問題は、日本の中で「A級戦犯は悪人だが墓を暴くのはやりすぎ」という立場がどこから生じてくるかである。

菅原道真は、反藤原氏の人で不遇のまま死んだが、藤原氏が権力を持っている時代に太宰府天満宮で神としてまつられている。

もし、当時の中国にこれが報道されたら反日デモが起きていたかもしれない。儒教的感覚では道真の墓に参ることは、反藤原の意思表明であるべきだ。それが彼らの秩序感覚であり、藤原氏自身が進んでそのようなことをやるのは、物事の道理がわからない蛮族の行為としか思えないのではないだろうか。

そして、日本では逆に、死んだ者を現世的な価値判断で裁くのは、非道な行為である。これも、深く浸透した宗教的な感覚であって、なかなか変えれられない。

こういう感情を、利害計算で簡単に左右できると思うのは非合理的であって、必ず、その感情は二倍になって返ってきて、どこかで利害の算定を狂わせる。そういう宗教的感情からは逃れられないものと思って、それを尊重するべきである。自分のそれを尊重できなければ、相手のそれも尊重できない。

お互いに、相手の宗教的感情を尊重するということが、具体的にどのような着地点につながるかは、私にはまだわからないのだが、まずこれが、宗教的な深い感情に関わる対立であることを意識する必要があるのではないだろうか。この仮説が、現代の中国の人の意識にどの程度あてはまるかはあまり確信がないが、日本の側にこのような矛盾があることは確かだと思う。

ブッシュの一部の支持層と同じような「宗教保守層」を、我々が内部にかかえていることに直面し、それを抑圧、否定するのではなく意識的にコントロールすべきだと思う。