目的としての政治

政治とは何の為にあるのでしょうか?

「みんなが幸せになるため」「正義を実現するため」「社会をスムーズに運用するため」…

いろんな考えがあると思います。しかし、ここではもう少し根本的なことを考えてみたいと思います。

政治とは何かの為の手段なのでしょうか?

アレントという人は「政治とは何かの手段ではない」と言っています。明確にわかりやすく言っているわけではないのですが、彼女は「公的幸福」ということを言っていて、これが例によって難解な概念なのですが「政治をすることで人間は幸福になる」と理解すると、何だかスッキリしたんですね。

この解釈はあまり自信が無いのですが、とにかく、政治が手段ではなくて、政治をすること自体が人間としての生き甲斐なのだと思ったら、私としては、いろんなことがハッキリしてくるような気がしました。

政治とは、人々の間に立って、自分の意見を表明することです。それによって自分が何者であるかを明らかにすることです。政治をしない限り、人間は自分が本当は何者であるのか知ることができません。自分が何者であるか知らずにいることは不幸なことです。

政治とは、何かの手段の為に仕方なくすることではなく、義務でもなく、やらなきゃ損なことです。それを本当の意味で奪うことは誰にもできないし、それを強制することもできません。人間としての究極の既得権だと思います。

人間は、物質としての体に縛られた存在であり、いろいろな限界を持っています。特に、有限の時間しか与えられていない、自分の体はいつか無くなっていまうというのが、絶対に変えることができない一番大きな限界です。

これに逆らう為に、人間に与えられた手段の一つがモノを作ることです。モノを作ることによって、人間は、自分の頭の中にあることを、世界に残すことができます。

そして、もうひとつが、政治をすることです。人々の中で、自分の意見を言うことで、明らかになった WHO 、すなわち「自分の正体」は、自分と人々の中で生き続けます。政治では、モノ作りと違って、相手が人間ですから、常にそこにはサプライズがあります。相手に自分がどのように映るのか、それは実際に人々の間に立つまでは知り得ないことです。

それを知るということは、人間に与えられた最も大きな権利なのです。

それ以外のことは全部副作用です。おまけみたいなものです。政治をして世の中を変えられるかもしれないし、変えられないかもしれない。変えられても変えられなくてもどっちでもいいんです。自分の何かが明らかになることは確実であって、それが一番重要なことです。

ただ、その為には、自分が納得できることを言わなくてはいけない。納得できないことを言っていたら、それは政治ではなく人々の目から隠れることです。本当に納得できること言わないと、自分の正体は明かになりません。

「自分だけが幸せになるなら他人はどうでもいい」そう本気で思えるならば、それを言えばいいと思います。あるいは、その本音を隠して、その考えの自分が一番納得できるスマートなふるまいをして、世の中に立てばいい。それによって明らかになる自分がいます。

「自分を犠牲にしても限界まで世の中に尽くすべきだ」そう本気で思うならば、そのように行動すればいいと思います。そうしないと納得できない自分がいて、それによって明らかになる自分がいます。

どういう考えを持っていてどういう行動をしようが、自分が人々に見える位置に立つならば、常にそこには予想外のことがあって、以前は知らなかった自分が見えてきます。それが政治をすることの目的だと思います。

「自分の知らない自分を知る」ということは、恐いことでもあるし痛いことでもあります。しかし、人々は時に苦痛や恐怖を求めて、オバケ屋敷やジェットコースターのためのチケットを買ったり長い行列に並んだりするわけです。自分の知らない自分を知りたがるのは、人間の本能だと思います。

おかしいと思うことを目の前にして、「それはおかしい」と言うか言わないか。それは誰にも強制されることではありません。完全に選択権は自分の中にあります。「それはおかしい」と言うと、自分の中の魑魅魍魎が現れてきて自分の回りを飛び回ります。自分が馬鹿だったり傲慢だったり優しくなかったり視野が狭かったり矛盾してたりいろいろなことに気づかされてしまいます。わかっていれば正体を出さないのですが、わかってないから正体を出すし、出してしまったその正体は、自分が本気な分だけどう見ても自分以外の何者でもなく、それを手練手管でごまかすことはできても自分だけはごまかせません。自分の底が抜けて、どこまでも落ちていくかと思えば、突然浮上して360度のループやきりもみに翻弄されます。それは常に予測不可能で「痛ギモ」な世界です。そのチケットは誰もが持っていて、使いたいと思えば使えばいつでも使えるんです。

私は、政治というものをそのようにとらえていて、そういう意味の政治の為の手段としてブログを書いています。そして、自分がそういう場を持てることを幸運だと思っています。