流動性の象徴としてのホリえもん

ニッポン放送ライブドアの支配から逃れる為に発行しようとした新株予約券は、東京地裁で発行差し止めの仮処分が下されました。

当然の判決だと思いますが、判決の内容を見ていくと、私には違和感が残る所があります。それは、「ライブドアの支配は企業価値を損なうかどうか」という論点に対して、裁判所がライブドアの主張に同意した上で、それをひとつの判決の理由としていることです。

私はM&Aの実務や法律についてはよく知りません。テクニカルには必要な判断かもしれませんが、司法が経済行為に踏みこんで価値論争に加わるというのは、原則論としてはおかしいと思います。

ニッポン放送をフジテレビとライブドアのどちらが経営した方が企業としての価値が高くなるのか、それは結論の出ない問題です。どういうやり方が最適なのか、特定の理論や枠組みで決定的な答えが出ない所に、企業の活動の本質があります。資本主義の本質と言ってもいいかもしれません。

頭のいい人がきちんと調査して一生懸命考えれば、それが事前にわかるものだとしたら、そもそも資本主義というシステムには意味がありません。頭のいい人を政府に集めて、その人たちが全部仕切って、他の人はその指示に従えばいい。ソ連という国は、それをやって壮大に自爆したわけです。

現代の経済は、複雑な要素がからみあってできています。特に、ITを中心として日々進歩する技術から、経済は多くの影響を受けています。例えば、パソコンやインターネットは、20年前の通信やコンピュータの常識から見ると、かなり無駄があったりいいかげんな所があります。20年前の専門家に、「2005年には通信とコンピュータでこういう技術が主流になっています」なんて言っても、誰も信じません。おそらくその人が当時の技術を勉強していればしているほどそんなことは信じないし、具体的に問題点を指摘してくるでしょう。今使われている技術は当時の技術から見たらほぼ不正解と言ってもいい。しかし、経済としてはそれが正解だったわけです。

技術的にいくらいいかげんでも、誰でも10万円で端末を買えて月々数千円で世界中と通信できるという経済的な意味の方が、社会との関わりの中では決定的に重要です。ただそれは、後付けで言うならどうとでも言えますが、事前にわかるものではありません。

だから、自分の金で自分のいいと思う所に投資する、みんなが違う所に投資すれば、誰かが正解に到りつくだろうというのが、資本主義の意味です。たまたま正解に当たった人は、次はより多くのお金を動かせる。それはその人が絶対に正しいわけではなくて、少なくともややマシな判断基準を持っている可能性はあるかもしれないから、もうちょっと影響力を大きくしてもいい。でもそれも次で失敗したら終わり。現代のように、複雑でイノベーションの可能性が大きい経済では、そのやり方しかないというのは、原則論としては、もう答えが出ている話です。

だから、企業価値に関する論点についてフジテレビとライブドアのどちらが正しいか、司法が裁定するというのは、絶対におかしい。「誰かがそれを正しく裁定できる」という発想がおかしいと思います。「誰にも事前に正しい答えを知ることはできない」という前提で、社会の仕組みを構築しないといけないわけです。

賭けてないのに賭けたフリをして、後から出てきて儲けをチョロまかすような奴がいたら、司法はそれを取り締まらないといけません。正解に対して自分の金を賭けてない人が儲けたら、それは目利きでない人に大きな影響力を与えることになって、その人の判断に社会全体が振り回されるのは、社会全体として無駄になる可能性が高い。もちろん、自分の金を賭けて儲けた人が次も正解を出すという100%の保証はありません。保証はないけど、確率が高いということは言えます。ですから、それに見あった褒美を与える必要がある。そういう意味の公正さが実現されているかどうかを、司法は見張るべきです。

そもそも敵対的買収というのは、ひとつの商売です。骨董品の目利きが、町の質屋に埋もれている名品を安く買って、その価値のわかる人に正当な値段で転売するようなものです。名品を見る目がなければ成りたたない。ただのガラクタを名品と勘違いして買いこんだら、それは誰にも転売できないので商売になりません。また、名品であっても、売る方がその価値を理解していて、それに見あった値段で売っていたら、やはり儲けがありません。不当に安く売られている名品を見つけなければ、商売にならない。

売る方だって、それが名品だと思えば安くは売らないでしょう。売る方がガラクタだと思って買う方が名品だと思うから、商売が成立するわけで、そこには常に価値観の不一致とリスクがあります。

ニッポン放送という会社が800億円で売られていて、ホリえもんはその会社には800億円以上の価値があると思っていて、売る側、つまり既存の株主はそうは思ってないわけです。思っていれば、その意見が株価に反映されてニッポン放送の値段はもっと高くなってるはずです。「800億円以上の価値がある」というのは、要するに今の経営者が駄目だから、会社の潜在的な価値を発揮できてないということです。それが正しければ、ホリえもんは800億円以上で転売できて儲かるし、それが間違っていれば、安くしか売れなくて損をするわけです。

ある茶碗が名品かガラクタか意見が割れたからと言って、裁判所が双方の言い分を聞いて裁定する必要はありません。ガラクタだったら買った人は損をして淘汰されるし、名品だったら買った人は儲けて、影響力を増していく。それは市場にまかせるべきことです。判断の不一致を容認できなければ、誰か頭のいい人が結論を出さなくちゃならないわけで、それは基本的にはソ連と同じです。

企業価値を損なう」というフジテレビの主張が正しければ、ホリえもんは転売できなくて損をして、市場から淘汰されます。それを市場にまかせて、司法(とか誰か他のエラい人とか頭のいい人)にまかせない、というのが、資本主義の本質で原則です。

だから、まずこの原則をしっかり認識すべきだと思います。

もちろん、原則には例外があります。放送局の公共性という点で、これは例外になるのかもしれません。ホリえもんが大損するのは勝手だけど、それにともなって放送局が駄目になるのは問題かもしれない。

そうだとしたら、そもそもそういう大事なものを売りに出した(上場した)奴は誰だ?ということで、その点を問題にすべきだと思いますが、それはそれとして、これは例外だという裁定はあってもいいかもしれません。

しかし、裁判所の判決理由はどうもそれと違うようだし、原則をちゃんと認識した上で、これを例外として擁護するような論調は、テレビや新聞ではあまり見かけないような気がします。M&Aとか外資とかIT企業を、なんだか化け物のようなわけのわからないもののように言って騒いでるだけのように思えます。

リスクを取って自分の金を出して投資するのは、単なる経済行為であって、いいとか悪いとか倫理の問題じゃない。失敗したら損をして成功したら儲ける、そのフィードバックがきちんと働いているかどうかだけをチェックして、あとは、野次馬気分で見物していればいいんです。

さて、ここからが本題なのですが、原則は原則として、本当にそれでいいのか?

ここまでが予定以上に長くなってしまったので、この後は宮台さんに少し頼ります。私は、宮台さんのこの言葉を思い出しました。


近代の社会システムが実現した過剰な流動性と多様性は、果たして良いことだったのか


そこにおける私自身の立場を抽象的に言えば、多様性と流動性を両方増大させたままにするのは無理で、流動性を制約すべしとするもの。

つまり、原則論だけを言っていて過剰な流動性を制限しなければ、全てのメディアがホリえもん的なノッペラとしたものになってしまうということです。

基本的には、ホリえもんが正しいのです。ネットをうまく使えばテレビもラジオももっと面白くなる。ただ、その正しさは永遠のものではなくて、ホリえもんよりもっと若い人はもっとラディカルな正しさを持っていて、その中には、ホリえもん敵対的買収を仕掛ける人がいるかもしれません。

ホリえもんは、フジテレビと違ってあっさり売り抜けて引退してしまうかもしれませんが、そうならなければ、その人が言うセリフはホリえもんと同じになるでしょう。もちろん、その人も永遠ではなくて、すぐ次のTOBに狙われる。

社会が複雑な分だけ、その順列組み合わせでイノベーションの可能性は高くなっていて、常に「その値段よりもっと高く売れる」という人がいて、その人言うことは正しくてうまく金を集めることができて、そういう洪水のようなマネーがあちこちの会社を更地にしていくわけで、それが繰り返されたら確かに多様性というものが損なわれるのかもしれません。

私が最初にこの問題を取りあげた時に触れた、吉田アミさんと江川紹子さんは、その行きつく先までを直感的につかんで問題とされているような気がしますが、ホリえもんという人は「流動性過剰が多様性を損なう」という懸念のシンボルにふさわしいものを持っているように感じます。

そう見ると、宮台さんが流動性と多様性の二律背反を問題にしている、次の二本の難解な文章の意味が、もう少しわかって来るような気もします。(上記引用は後者から)

でも、私はやっぱり「世界はほんとうはもっと色鮮やかで豊かだし、残酷で不気味なんですよ?」と「?」はついてしまうんですが、やはりそう思うわけです。世界の不気味な多様性は、ホリえもんやハゲタカふぁんどの流動性ごときにどうこうできるもんじゃないと。