「私のブログは偏向してます」という私

私が特定のテーマに関して普段と違う反応をするというのは、私も自覚しているつもりなのですが、ここを継続的に読んでいる方にはよくわかっていると思います。

それで、そのことを初めて読む人にもわかるようにするにはどうしたらいいだろうか?と考えて、また哲学的な袋小路に入りました。

「私のブログは偏向してます」と私がヘッダに書いたとしたら、そのヘッダを書いている私は、どのような価値観、判断基準に基づいて「ここの本文は偏向している」と言うのか?そのヘッダを書いている人は、偏向してないのか?中立なのか?

つまり、「あえて」偏向するということは、読んでいる人にとって素で偏向しているブログより安心感があると思います。もし、ヘッダにそう書いたら、読む人はそう感じて「随分極論を言っているけど、ここの人はわかってやってるみたいだから」と安心してしまうかもしれません。しかし、その「わかって」という部分=ヘッダに「偏向してます」と書いた人の判断基準が、やっぱり偏向しているかもしれません。

もちろん、ブログは無保証で、読む人の責任で判断すべきものですから、そのヘッダにつられて読者がミスリードされても、それは自己責任です。しかし、ヘッダにそう書くということは、読者に余計な負担を強いるという点で、少なくとも不親切なブログであると言えるかもしれません。

そう考えると、ヘッダに書くよりは、本文で自分の偏向をネタにする方が、好ましいような気がします(何度かそうしているつもりですが)。その方が、このブロガーがどこがどう偏向しているのか、読んでいる人は判断の基準となる情報を多く得ることができます。

詳しく説明すると、 自己言及する記事では、書く私→書かれる私、という関係があります。読者は、「書かれる私」に関しての情報を受け取るのと同時に、「私がこう見るessaという人について、この書き手はこういう風な見方をするのか」という形で「書く私」についての情報を受け取ることもできます。

ということで、メディア論については、「自己言及」が非常に重要なキーワードになると思いました。