プロ奴隷を批判してプロ奴隷認定される

プロ奴隷のAAを晒すという趣旨の記事に私が書いた安倍ちゃん:朝日新聞:2ちゃんねる = サリマン:荒地の魔女:ハウルという記事がコメントで投稿され、電波なブログ晒しと治療薬としての良質ブログという記事で改めて取りあげられました。

ここが電波なプログであることは全く異論がありません。また、「プロ市民 VS プロ奴隷」という座標軸で考えるなら、私は朝日新聞を繰り返し批判していますから、プロ奴隷の立場になるだろうと思います。

しかし、リンクされている記事は、非常にシンボリックな表現ですが、基本的には安倍氏(に代表される小泉政権の一側面やそれに躍らされている人たち)を批判しているものです。そういう記事をリンクして、このような扱いを受けるのは不思議です。

たくさん書いているプロ市民批判の記事はスルーされて、たまたまプロ奴隷批判の記事を書いたら、その記事を根拠にプロ奴隷の認定を受けてしまったということです。

同じようなパターンとして、アメリカの過剰な暴力を岸田秀理論で理解するという記事に、言論統制(gag requested)という趣旨の批判をいただいたことがあります。

これは、「アメリカの病気が日本を『過剰な服従』(=プロ奴隷)と『過剰な批判』(=プロ市民)に分裂させた、ブログはその橋渡しになるのではないか」という趣旨の文章です。主たる批判の対象はアメリカで、日本については補足的に、自分はプロ奴隷的心性に縛られているのではないか?という自己批判も含めて、プロ市民プロ奴隷の両者を同等に批判しているのですが、どうも、一方的にプロ市民だけを批判していると誤解されているような気がします。

暗黙にですが「ブログによる言論を活発にして両者の橋渡しとしよう」という主張もこめたつもりですが、それに対して「これは言論統制である」という批判を受けました。

もちろん、どちらも精神分析的手法によって問題の深層に迫ろうと試みているもので、わかりやすい文章、よく書けている文章であるとは思いません。また、主題の性質上、意図的に、複数の解釈(いろいろなレベルの解釈)を可能とするような書き方をしている側面もあります。ですから、理解されなかったり誤解されたりするのは、私の力不足であって仕方ないと思います。また、こういう手法自体に批判的な方がいるのも理解できます。

私が不思議なのは、放置されずにきれいに逆の方向に誤読されてしまうことです。

もちろん、単なる誤爆である可能性もありますが、「プロ市民プロ奴隷を一つの枠組みで一緒に批判しようとするアプローチは、非常に感情的な反発にあう」ということが何かを意味しているのかもしれません。