ドットコム会議/オープンソースのソーシャル・ネットワーク 絵文録ことのは


今回発表された内容を一言でまとめるなら「情報が勝手に集まり、勝手に最適化されるシステム」が求められているように思う。

これが全く同感。

「勝手に最適化される」と言っても、そのアルゴリズムを設計し、そのコンピュータを運用している人がいるわけです。しかし、その人はそのシステムの作用をコントロールできるわけじゃない。システムの起こすことに責任があるのは誰なのだろうか?

グーグルランクと課題図書は、Googleをひとつの実例として、この構造を問題にしたかったわけです。

そういうシステムはこれからもどんどん作られて進化していく。そして、そのうちいくつかはとんでもない量のデータを集める。それによって我々の生活はどんどん便利になっていく。多少の不便があっても、データの量がもたらす利便性に逆らうのは難しくなると思うんです。

東浩紀とアマゾンの「おすすめ」をからめて論じたことがありますが、現在、私の「本のおすすめ」は、以下のようになっています。

プロ倫といっしょに、子供に頼まれた「ジョジョの奇妙な冒険」を数冊買ったのですが、その関係で、この関係の本ばかりで埋めつくされてしまったのです。「本のおすすめ」は、私にとっては、たまに見て「ああこんな本があるのか」と関連情報を検索したりして楽しむコンテンツでもあったのですが、その楽しみを奪われた恰好になっているわけで、もうこれは、子供用のアカウントを作るしかないと思ったりします。


これが悪魔の誘いである。何も強制されてないのに、むこうの思うツボにはまる。仕組みがプログラムのレベルまで見えていても、躍らされてしまう。子供とカミさんのアカウントを作れば、家族ひとりひとりの購買履歴を細かく握られる。自ら進んで罠にはまっていく。そのように誘導されているわけだ。

つまり、アマゾンというのは、購買履歴データが「勝手に集まり、勝手に最適化されるシステム」なんだと思います。

このままでは、これから「プロ倫」を買った誰かが「ジョジョの奇妙な冒険」を勧められてギョっとしてしまう。それに対して、私が自ら進んで最適化に貢献して、「プロ倫」には「客観性論文」か大塚先生の新書を推薦するようにしてるわけです。

世界中でたくさんの人が、知らないうちに、Googleやアマゾンやorkutや「はてな」や、その他たくさんのシステムの「情報の収集と最適化」に貢献しているのです。そういうシステムは力を自己増植的に集めて「権力」と呼ぶべき存在になっていく性質を内在的に持っていると思います。それが持つ力について以下の懸念があります。

  • 本来の意図の通りに機能したとしてそれは正しいことなのか(グーグルランクは民主的か?)
  • 本来の意図に含まれない濫用(Google八分とかアメリカ政府がGoogleを使って陰謀をするとか)がされたら何を批判すべきか
  • 人間の運用する権力と違って、アルゴリズムには思想的な「批判的言説」が全く機能しないこと