「他者の到来」に対して概念が鎧になる


ひき殺された犬を実際に自分の目で見たときに、その「画像」を見た、というのはなにか変な言い方なような。

というツッコミをいただきました。言われてみるとその通りです。しかも、これは重要な問題を含んでいると思います。

「グロ画像」という言い方は、第一には、読者の方が「ひき殺された犬」のイメージを生々しく想起しないための配慮です。しかしもっと言えば、私自身が「ひき殺された犬を実際に自分の目で見た体験」について、自分で語る(=思い出す)ことに、今だに抵抗があるのです。

人間は、生の体験を直接そのままで体験することはありません。ほとんどの場合、それに概念というクッションをつけて体験します。「UFO」という言葉がなかったら、それが何であるか特定できない空飛ぶ物体を見ても、それについて他人に報告することに困難を感じるでしょう。他人に言うだけでなくて、自分に対しても、その見たものが何であるかを説明することができません。

経験の無い突発的な事件に対して、とまどいを覚えるのは、経験が無いからではなくて、それをうまく概念化できないからです。

UFOや幽霊のような、外部に見えるものごとならば、どれだけおかしなあり得ないものでも、その見たイメージをそのまま書くことで伝えることができ、それに対して最低でも「あれ」という言葉で概念化することができます。

しかし、犬の死体を見た私が経験したものは、視覚的なイメージだけではなくて、その瞬間に自分の中に起きた混乱です。それは、その時の自分を大きくゆるがし、30年以上たった今でも、無意識に「(生で見たのに)グロ画像」という変な言い方をしてしまうほどの衝撃を私に与えました。

思春期において、人間の内面に発生するものは、「あれ」という言葉でも概念化できない、非常になんともいいようもないものです。それは本質的に理解不能、伝達不能のものです。私が、「グロ画像」という平板な言葉で言い換えをしたように、「恋愛」とか「殺意」とか「盗んだバイクで」とか「羽美ちゃん」とか、いろいろな言い換えの仕方はあります。

体験そのものが圧倒的で破壊的である場合には、そういう概念が、ひとつの鎧として支えになります。「それ」は人生において不可避であって、ある意味必要なものです。概念は体験の代理にはならないので、逆にその鎧が、「それ」を直接体験することの妨げになってしまう場合もあります。しかし、そのような鎧を子供たちの手元に用意しておくことは必要だと思います。

子供たちの体験が多様になれば、それに見あった多様な鎧が必要です。今は、すっきりとわかりやすい世の中ではないし、それを改善できる見込みもありません。文化は、鎧や概念の供給源ですから、一元化するなんてとんでもない。もっともっと多様で猥雑にしないと時代に追い付けなくなるのではないかと思います。