体系的な無責任
閣僚の年金の未払いに腹が立つ。そんなことにムキになるのは、我ながらナイーブというか近頃だんだん退行してかもな、と思うのだけど、それでもあの無責任さに腹が立つ。
反省する気持ちがないのは、まあ当然だろうとは思う。そこまでは我慢できるが、それをシラーっとあからさまに見せてしまっていることが問題だ。せめて、恐縮し反省し怯えているフリをちゃんとしてほしいのである。
年金を払うのは、本音として損得の問題なのか善悪の問題なのか。彼らの態度は、建前上は善悪の問題として謝罪しているが、本音としては損得の問題だから、「自己責任」で払わないという選択したことに何も問題がないと思っていて、それを隠そうとしていない。
それで一番不愉快なのは、そういう本音と建前を見た若者が、どういう反応をしたらいいのか、そこに整合性のあるプランのようなものが一切ないことだ。
彼らのメッセージを正確に理解した若者は、自分も同じように損得の問題として年金のことを考える。論理的で充分に説得力のある運用計画を示せなければ、どんどん未払いが増えていく。もちろん年金は破綻する。
そのような本音のレベルを理解できる若者が望ましいのか、建前を何の疑問もなく受けとって、戻ってこない掛金をせっせと搾取される若者を、小泉内閣は望んでいるのか。
やすやすと搾取される若者ばかりだと、建前だけを受けとって進んで年金を払うので集金率は高いだろう。しかし、今どきそんなことでは、仕事がないどころか、俺俺詐欺とかデート商法とかに引っかっかったりして、上納金になるはずの金までまきあげられてしまうだろう。結局、払えないので、やはり年金は破綻する。
どっちにころんでもまともな計画が存在しない。その整合性の無さがムカツクのだ。
これと比較すると、ネオコンというかアメリカのエリートは、もっと腹がすわっていて気持ちがいい。「馬鹿と貧乏人と異教徒に残すものは何もない、世界は全部俺たちがもらった」というような、徹底的に無慈悲で徹底的に傲慢な決意がある。それはそれで筋が通っていていさぎよい。
プランに整合性があるから、手前勝手だけだけども期待する若者像も存在する。アメリカンドリームを夢見るマッチョな青年像だ。上にネオコンがいて下が低能マッチョと単細胞テロリストばかりだと国は一応回転する。そういうのはリアリティのある政治だと思う。それは少なくとも非難に値する政治である。
政治家に絶対的に要求されるものは、筋の通った若者の理想像を描けることではないだろうか。どんなに自分勝手であっても、ひとつのビジョンがあれば、国はそれを基準として動けて、若者もそれを座標軸にできる。
年金未払いの三閣僚を見ていて、痛切にそれが日本の政治に欠けていると実感した。それはただの無責任ではなくて、腰のすわった体系的な無責任だと思う。
このような無責任の体系を理解することが、日本では「大人」であることの条件である。
むしろ、思いつきの無責任や成行きまかせの無責任でなくて、体系的な無責任であれば、それがここまで徹底していれば、それはそれでひとつのビジョンと言えるかもしれない。
だがもしそうだとしたら、若者はそのメッセージをよく理解して、素直にそれに従っていると思う。せめて、若者を褒めてほしいと俺は思うのだ。