Yes-No
実は私、学生時代にオフコースのコピーバンドやってました。もし、このブログを閉鎖に追いこみたい人がいたら、どうにかして当時の音源を入手して「これを公開してもいいのか?」と脅せば一発です。恥ずかしくて恥ずかしくて「ごめんなさい、もう書きません。すぐ閉鎖します」とすぐ降参しちゃいます。
とは言っても、別に小田和正が嫌いになったなわけじゃなくて、単に私が無茶苦茶音痴だったからです。一人でハーモニーをだいなしにしてたのが私なんです。恥ずかしいのはただそれだけの理由で、小田和正が好きだったことを過去の汚点としているわけではありません。そこは誤解しないでください。
小田和正は今でも好きです。インテリの人はよく、「『ワインの匂い』以降、奴は堕落したがそれまでは光っていた」とか、誰も知らない固有名詞を出してヒネクレた褒めかたをしたりしますが、私は素直に、「さよなら」とか「ラブストーリーは突然に」のような大ヒット曲もいい曲だと思ってます。かなり好きなミュージシャンです。
しかし唯一、「Yes-No」だけはいただけない。あれってなんか女の子のココロのスキマにつけこむ、卑劣なナンパじゃないですか。しかも「君を抱いていいの?」というサビのセリフが最悪。
聞くなよ!そんなこと、責任回避するなよ抱くなら、と言いたくなる。犯罪的な女々しさですね、これは。
そこで話が突然かわりますが、「君をイラクに送ってもいいの?」と小泉さんが聞かなかったことは私は評価します。誰が決断の主体なのか判然としないのは、恋愛の場合にはありなのかもしれませんが、政治でそれをすると非常に禍根を残すことになる。小泉さんはちゃんと自分の責任で決断して、それを明言した。これは立派なことだと思います。
私には英語が読めないので、このこと自体の是非は判断できませんが、間違っていたとしても、将来、反省のしようがある態度だと思います。日本の戦後は「君を抱いていいの?」というような、非常に微妙な責任回避をする男が多すぎる。それは憲法からはじまって政治に限らずあらゆるジャンルについて、そう言えるのではないでしょうか?
恋愛の場合でも、Yes-Noのようなケースでは、後になって泥沼的な修羅場が待っていそうな気がします。ドラマにもならないし人生勉強にもならないみじめな別れ。それとも、解釈改憲のつみかさねのような、しょうもない恋愛が続くだけのことで、決して幸せな結婚生活にはつながらないと思うのです。
小田和正は、それを批判するためにあの歌を書いたような気もします。
今なんていったの
国内のこと考えて
CNN ぼんやり見てた
世界の中で日本は?
こたえたくないなら
きこえないふりを すればいい
ことばがもどかしくて
うまく答弁できないけれど
景気のことばかり気になる
君をイラクに送ってもいいの?
戦場は今どこまでなの?
君をイラクに送ってもいいの?
正義は今 何処にあるの?
何もきかないで 何も なにも見ないで
君を哀しませるもの 何も なにも見ないで
君をイラクに送ってもいいの?
テロの標的(まと)にしていいの?
君をイラクに送ってもいいの?
正義は今 何処にあるの?
というような総理でなかったことは、私はよかったと思います。