コンテキストを巡るコンテキスト

仲正 昌樹さんの「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 にはコンテキスト(文脈)という言葉が繰り返し出てきます。

実は、コンピュータの専門用語にもコンテキストという言葉があります。と言っても、誰でも知ってる技術用語ではありません。プログラマーの中でもかなり特殊なタイプしか使わない言葉です。プログラムを動かすプログラムを作る場合にしか出てこない概念です。

 a = 10
b = 20
c = a + b

このプログラムを実行するとcの値が30になります。普通のプログラマーは何の疑問もなくそれを受け入れますが、なかには「どうしてそうなるのだろう?」と考えこむタイプがいます。

こういう人はたいてい、そのうち仮想マシンとかインタープリタと呼ばれる、「プログラムを動かすプログラム」を作り出します。そういうプログラムを作るには、「なんでcが30になるのか」ということを考えなくてはなりません。

「aが10でbが20だからcは10+20で30になるじゃん」というのはコンピュータには通じないのです。「だって上に書いてあるだろ」と言っても、コンピュータは1行づつ別々にプログラムを解釈しますから、「a = 10」という命令の結果、つまり「aの意味が10である」ということをどこかに覚えておかなくてはならない、その領域を「コンテキスト」と言います。つまり、「コンテキスト」とは次のような役割を持つデータ構造です。

  • 意味を構成する部品の意味を与えるもの
  • 過去の歴史を圧縮したもの
  • 普通は当然のこととして気にしないけど、よく考えるとあたりまえではないもの

仲正さんは、これと非常に近い意味あいの「コンテキスト」という言葉を使います。それはコンピュータ用語でなくて思想・哲学の用語のようですが、その言葉を繰り返し使って、「ゆとり教育」論者を批判します。


「ゆとり」論の人たちはには、「目的」-「文脈」-「主体性」が不可分になっていることを理解しないで、「主体性」だけを取り出して問題にしている傾向が非常に強いように思える(p127)

「詰めこみ教育をやめて、ゆとりを与えれば子供たちは自然に主体性を発揮して、自ら学び始める」という「ゆとり」論は、「主体性」という概念をナイーブに信じすぎている、と言うのです。「何をしてもいいよ」と言った時に、子供が野球をするか、本を読むか、ゲームをするか、もっと他のことをするか、それは、その子供がこれまでしてきたこと、覚えてきたことによってある程度自動的に決まってしまう、少なくとも選択肢は限定されているわけで、そのような「自由」を与えて「主体的」に選んだことが、子供の本性から出たものと言えるのだろうか、ということです。あるいは、「主体性」と言いつつ、教室の外、学校の外へ出ていってそのまま帰ってこないような「主体性」まで認める人は少数ですから、結局、彼らが言うのはある枠組みの中での限定的な「主体性」であることになります。その限界に言及しないで、無限の可能性を持つようなニュアンスを含んで「主体性」と言うのはフェアではない、というわけです。

つまり、「自由」「主体性」という概念も、その人の属する共同体やその人のそれまでの人生の歴史に制約されているわけです。

 c = a + b

という文が、それだけで単独に与えられても、それは意味をなさず評価(実行)することはできません。aが何でbが何でさらには + という記号はいったい何を意味するか、そういう様々な文脈に依存する情報がなければ、いかなるコードも意味を持ちません。

これと同じように「あなたは自由ですか?」と聞かれても、どのような枠組みの中でのどの程度の何についての自由なのか、という「コンテキスト」を明確にしなければ、答えることはできません。

私は、この仲正さんの問題提起は非常に重要なものであると思いましたが、同時に、そこで使われている「コンテキスト」という言葉が、私の知っているコンピュータの技術用語としての「コンテキスト」と、このように非常に深いレベルで共振を起こしていることに驚きました。

そして、この一致は偶然でなく理由があって生じたことで、そのことがこの問題自体に関係しています。

コンピュータ用語のコンテキストは一般的ではありませんが、技術用語ですから明確な意味の与えられた概念です。ある種のプログラムを作る場合にその概念が必要であることは必然ですが、日本人の技術者にとっては、その概念が「A」と呼ばれようが「村上」と呼ばれようが「もけすか」と呼ばれようが関係ありません。他の概念とその概念を区別するラベルがあればいいのです。

しかし、実際にはなるべく直観的にその概念を理解できるようにその技術的な概念と近い意味の言葉を日常用語の中から探してきて、「コンテキスト」という言葉が選択されました。仲正さんが使う哲学、思想の用語としての「コンテキスト」もそのように選ばれたのだと思います。

つまり、ヨーロッパには「意味は自明に自然に生じるのでなく、ある環境ある制約の中で特定の場面があって、それに対応することで意味が生まれる」という、暗黙の合意があって、その為に、コンテキストという言葉が日常の用語として存在しているのだと思います。(この本で覚えた哲学の用語で言うと「日本では「コンテキスト」という言葉が完全にエクリチュールであるが、欧米ではパロールである」となるのかな)

コンピュータを学ぶ場合には、こういう日常用語でありながら、抽象的な特別の意味を与えられた言葉が多くあります。「オブジェクト」「プロセス」「メモリ」とか、日本ではこういう語彙を持っているのはプログラマに限られますが、アメリカではそのへんのおっさんも普通にこういう用語をしゃべります。

単なるラベルとしてそういう用語をひとつひとつ覚えていくのと、日常用語の中で直観的に意味を知っている言葉に技術的な特殊な状況での定義された意味をつけ加える形で学習していくのでは、相当、頭に対する負荷が違うような気がします。日本語でコンピュータを勉強する者として、そこにハンデを感じてしまうのですが、おそらく、思想哲学でも同じ事情があるのではないかと思います。

特に、「コンテキスト」という概念には、二重の困難があります。「コミュニケーションは異質な者同士の間で発生し、異質な者同士がつながるから意味がある」と考える欧米では、日常的な概念です。日本ではコミュニケーションは共同体的な同質性を基盤と成立しないと考えられています、つまり「コンテキスト」が共有されてないとコミュニケーションが成立しないので、常に同じ「コンテキスト」を共有する以上、「コンテキスト」という概念は不要です。よって、日常会話の中にはいかなるレベルでもそれを指す概念がありません。


哲学・思想が「分かる」というのは、そのまでの「自己」の在り方を見直すきっかけを見出した、ということである。それまで自分では気付いていなかった、自己を取り巻いている共同体的な諸文脈を意識化して、自己を再創造する契機が生まれてこなければ、「分かった」ことにはならない。(P213)

「ゆとり」論のフワフワした腹のすわってない美辞麗句は、仲正さん求める思想と対照的です。その違いは、思想・哲学と日常生活との連続性を求めるか、生活や日常と切り離された言葉遊びの世界としての思想・哲学でよしとするか、という違いであり、例えば「コンテキスト」という言葉が厳密な意味を定義された述語であると同時に毎日毎日日常的に使う言葉であるか、単なるラベルであるかという違いから生まれてくるような気がします。

仲正さんはこの本の中でいろいろなものを批判しています。批判の対象は「コンテキストという概念を自覚してない」という点が共通しているのですが、その自覚の無さは二種類に分けるべきだと私は思います。

ひとつは、ハーバマスに代表される「人道主義者」、もうひとつは「ゆとり論」に代表される日本の知識人(特に左翼系知識人)です。yatsuさんが、『「不自由」論』の中で、「(後者に対する批判である)第3章だけが異質である」とおっしゃっていることには同感です。(nozaの日記にも同様の記述がありました)両者を同じ枠組みで批判することには無理があるような気がします。

しかし、私はむしろ第3章の方が重要であると思います。日本人の「コンテキストに対する無自覚」は人道主義者のそれより根が深い。第3章は思想的な掘り下げが浅くて感情的であるとは言えるのかもしれませんが、その指摘自体は非常に重要なことだと思います。

Junkyさんは何が言いたいの、言いなさい、早く。で、この問題をひきこもりと関連づけて論じています(もともとこの本はこれで知り、これで興味を持ちました)。


安楽死するか否かを、「もっと生きたいか、もう死にたいか」という気分だけで決定する人は、現実にはほどんといないという。周りの人たちが、自分が生き続けることについてどう考え、死ぬことについてどう考えるんか、様々なやり取りを通して、顔色をうかがい、自分の「状況」をそれなりに把握したうえで、「自分が何を望んでいるのか」を知るに至る、というのである。「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである(P200)

現代の若者は、生き死にの問題でなく単に学校へ行ったり就職するだけでこのようなレベルの深い葛藤を経験しているのではないでしょうか。そのような自己決定を手早く行なうことを強いることが、ひきこもり問題のひとつの原因であると思います。問題は、なぜそんな暴力的な強制を平気で行なう人がいるのか、なんでそんなことが平然とできるのかということです。

それは、「コンテキスト」や「自己」や「主体性」という概念を、単なるラベルとして感じてすませることができた人と、それが目の前にある避けがたい問題につながっている人のギャップではないかと思います。単なるラベルと思っている人は、「自分とは何か」「人生とは何か」という問題を「すぐに選べ」「適当に選べ」と気軽に言いますが、いちいち「自己」が解体する思いを経ないと選択、自己決定どころか検討さえもできない人がたくさんいるのです。

「コンテキスト」を巡る「コンテキスト」が日本では独特の状況にあり、それが日本独自の問題の原因となっているのではないか、そして、「コンテキスト」が日常用語になくて抽象的な概念としてしか成立してない日本の思想哲学の貧困が、それを論じることさえも難しくしているのではないか、私は、この本を読んでそんなこと考えました。