富豪的知的生産〜日本史屋さんとかの危機

Russellさんのインタビューで確認できたことは、「事前の調整」という概念が無いことです。せっかくの開発者という貴重なリソースを無駄使いしている。二人が同じ機能を(別のやり方で)開発しても、全然OKみたいです。たいてい、どちらかは捨てることになります。「努力はマージできる」けど、コードは捨てるんです。それを反省している気配はありません。

なぜでしょうか?

実に簡単な話で、開発者はクリティカルなリソースではないのです。オープンソースでは原理的にこれは常に成り立つ真理です。来る者を拒まずネットで募集すれば、世界のどこかに、必ずそういう物好きがいるわけです。それも複数いるわけです。

現在は、その原理通りになっているのは、限られたプロジェクトかもしれません。湯水のように開発者というリソースを無駄遣いできるのは、カーネルApacheくらいかもしれない。でも、それは一時的なものです。ちょっと待てば、インドと中国から湧いて出てきます。

これから、インドと中国では何億という人が食えるようになって座業を志します。そのうち優秀な人は英語を覚えてMITとかに留学するでしょうが、その次の次くらいは日本語を覚えて来日する。そのうち何割かは、武蔵丸のように日本の文化に見事に適応する。そのうち何割かは学者になり、例えば日本史のようなマイナーな学問をやる人も少しは出てくる。そのうち何割かは、今それをやってる人よりだいぶ頭よかったりする。とにかく母数が大きいので、そういう何段階ものフィルターを通っても残るのが数千人という規模だったりします。おそらく二十年たったら、日本史や日本の古典文学の研究はインド人と中国人に牛耳られてしまうのではないか。いわんや、ソフト開発なんていくらでも要員がいるに違いありません。

おそらく、もう少ししたら飢えている人に食事を与えるより、ネットにアクセスできる環境を与える方が安く簡単になります。飢えなくて生き残った人の何割かは、絶対に知的生産に携わる。ネットさえあれば勉強できるからです。

そうなれば、人間量子コンピュータのようなことができるようになります。みんなが好き勝手にやって100人のうち1人が正解を出せばよいという、富豪的な知的生産システムです。オープンソースの人は、本能的にそれを感じてそれに最適化した方法論を練っているような気がします。