散文詩あるいは声に出して読むBLOG: 「損得と善悪とオープンソースと殺人」

「なぜ人を殺してはいけないか」の答えはどれもなんかしっくりこなかったけど、これという代案があるわけじゃなく、「じゃあ、おまえはいいと思うのか?」と言われたら、「それは悪いことです」と答えますが、「そう思うなら理由があるだろ」と問いつめられたら、これという代案があるわけじゃないので困ってしまう、なんかしっくりこないと思ったら、設問がおかしいんですね。

これは人を説得する為の設問ですが、普通、人を説得して何かをさせたりさせたくなかったりする場合は、損得で誘導します。例えば、私は「ソースをオープンにしよう」とon/offともにあちこちで説得していますが、「ソースをオープンにするのは正しいことだ」と主張してもなかなか聞いてくれない。「ソースを公開することやソースが公開されたソフトを使うことは得です」と言わないと駄目みたいです。

実際、これが正しいことを証明するのは簡単なことで、やってみりゃいいんです。海外からパッチが送られてきて、と今これを書いた時にSSKが「贈られて」と誤変換したしたのですが、この漢字が正しい!と言いたくなるほど、これがやってみりゃわかる楽しい経験です。これでは正しいことの証明になってはいないのですが、実はこれが楽しいことを証明するのは簡単なことで、やってみりゃいいんです。海外からパッチが贈られてきたりすると、これは楽しい。あれ、何の話だっけ。

要するに、あるイシューに関して会社の中で一番興味と能力のある人が集まるか、世界中で一番興味と能力のある人が集まるかの違いで、ソースをオープンにするとよいコードが書けるので、これは正しいことだと思います。こんな実験的な文体使わなければ、ソースをオープンにするとよいコードが書けるので、これが正しいことを証明するのは簡単です。

でも、損得の問題はややこしい。ソースをオープンにするとよいコードが書けるので、損得の問題はややこしいですが、やはり結局は得になると思うのですが、これはなかなか説得力に欠ける。こんな変態的な文体使ってなくたって、オープンソースが得であることを証明するのは難しいです。

「なぜソースをオープンにしなければいけないか」には損得の問題で答えて、「なぜ人を殺してはいけないか」には善悪で答えなくてはいけない。これは逆だと思うんです。

軍隊以外で人を殺すのは、よいことか悪いことかわからないと言ったらいいすぎで、たいてい悪いことですが、それよりは明確に損です。軍隊でも戦争以外で人を殺すのは、たいていは損なことです。人を説得するなら善悪の問題でなく損得の問題にした方が簡単だと思う。

損得の問題にすれば、説得に失敗した時にも、相手が得るものと失うものを比較してから損得の問題にして説得して、説得に失敗したのだから、説得に失敗した時に、相手が得るものと失なうものを比較した時に間違えたことがすぐわかります。

軍隊以外で戦争以外で人を殺したら、得るものと失うものを比較して、失なうものが多いと思うけど、失なうものが少ない人には損得の問題として説得に失敗するだろうから、説得に失敗した時に、日常生活から失なうものが少ないので説得に失敗したので、日常生活から失なうものをすでに失なっていることがすぐわかります。

「なぜソースをオープンにしなければいけないか」には世の中ではこれは損得の問題として答えることになっていますが、私は善悪の問題だと思うのですが、世の中では損得の問題として答えることになっているので、損得の問題として答えると、やはりこれはソースをオープンにした方が得だと思います。

「なぜ人を殺してはいけないか」には世の中では善悪の問題として答えることになっていますが、私は損得の問題だと思うのですが、世の中では善悪の問題として答えることになってるのですが、善悪の問題として説得しても説得に失敗したり失敗しかかっていたりして、損得の問題として説得しても説得に失敗したり失敗しかかっていたりして、どうせ説得に失敗したり失敗しかかっていたりするならば、説得に失敗したり失敗しかかった時に、善悪の問題として論じていると、説得に失敗したり失敗しかかった理由がわかりませんが、損得の問題として論じていると、説得に失敗したり失敗しかかった理由がわかりかけてくる、日常生活から失なうものが少ないので説得に失敗したので、日常生活から失なうものをすでに失なっていることがすぐわかります。

少なくとも善悪の問題として論じるより損得の問題として論じた方が、日常生活から失なうものをすでに失なっていることがすぐわかりますから、結局は得なことなので、損得の問題としてその方が結局は得です。日常生活から失なうものをすでに失なっていることがすぐわかります。

日常生活から失なうものをすでに失なっていることがすぐわかります。