パーシャル即身仏

「学校へ行く」と言ったら、普通、家を出てから、通学路の風景の中で友達としゃべったり電車にのったり、遅刻しそうになって走ったりする一連の行為を指します。家の玄関で消滅して、そのままワープして教室の中に突然出現するような行為を「学校へ行く」と呼ぶ人はあまりいません。

しかし、「俺はもう死ぬ」と誰かが言うと、時空間の中に突然「死」が出現するようなイメージを持つ人がほとんどです。「俺は自殺する」と言う人は、たいてい不連続な突発的な死を意味してその言葉を使っています。でもそれは幸いなことで、その意味の「俺はもう死ぬ」ならば、まだ止めようがあります。「死ぬな」という言葉が意味を持ちます。

しかし、「学校へ行く」と近い意味として「俺は死ぬ」という人は、止めようがありません。止めても止めても、不死身でない限りその人はいつか死ぬわけです。いくら「死ぬな」と言っても「無理」と言われてしまいます。

実際には、「学校へ行く」という言葉のような意味では、私もあなたも「死んでいる」んです。つまり、ある目的地へたどり着くまでの一連の過程を、その終着点によって代表させるような言葉の使い方をすれば、私もあと何十年か生きて、いくらかのブログを書いて、仕事をして、老いて死ぬ一連の過程にあるわけです。

仏教では、終着点を意識して生きる、そういう生き方(死に方?)を奨励しているようです。ですから、即身仏は自殺でもないし、仏教徒として生きる生き方の中では、それほど特殊な生き方ではないと思われます。

もし誰かが「即身仏になる」と言って、それを止めたいと思うならば、別の死に方=生き方を提示する必要があると思います。つまり、終着点が無いという幻想に依存した生き方でなく、「死ぬまで生きる」という「死に方」として、もっと別のいい方法を提案しなければならない。

それが倫理的にも必要だと思うし、実効性としてもそういう代案が無ければ見向きもされないでしょう。

このような問いかけをパーシャルに行なっている人は、ひきこもり以外にもたくさんいると思います。そういう人の要望にかなうようなパーシャルな「死に方」を提示できれば、それはきっといいビジネスになると思います。