コテハン的匿名性と名無しさん的匿名性

"essa" というハンドルネームが俺の実名と切り離されていることは、政治的な発言をしたり倫理的に社会に許容されない発言をするためには必要だ。必要に応じてそのような保証が得られないと困ることもある。

それによって俺は言いたいことを全部言えて、俺が俺であることを100%表現できる。それは匿名性のひとつの価値だ。

一方、マターリと名無しさんになって場に埋没した発言をしたいこともあって、それは俺が俺であることを捨てるために必要なことだ。そのようなニーズもハッキリとあるが、これはコテハンを実名と切り離す匿名性とは別のものだ。2ちゃんねるとは何かで「偶有性」として触れられているものがそれだと思う。

コテハン的匿名性だけでは2ちゃんねるは成り立たない。政治的にも文学的にもコテハン的匿名性には背景として名無しさん的匿名性が必要である。コテハン的匿名性がなくて名無しさん的匿名性が成り立つのかどうかは、これからの2ちゃんねるを見ていればわかるだろう。