自分の頭と身体で考える 養老 孟司 (著), 甲野 善紀 (著)


稽古法の原則というのは簡単に言うと、何を不自由にし、何をやりやすいようにするかという設計ですね。何もかも不自由にし何もかも拘束してしまったらやる気をなくすし、じゃあ自由にやっていいよというと、単なる慣れの延長線以上のものがなかなか出てこない。

甲野善紀という人はこのような非常に合理的な発想で古武術を研究している。この理論を学んだある高校のバスケ部の監督が「ジョーダンの動きの秘密がわかった」と言って、弱小校を優勝させてしまったそうである。

このように筋が通っていて実効性があることをやる人は、本人が望んでなくても摩擦を起こしてしまう。控え目な語り口で語られるそのエピソードの数々が非常に面白い。そして甲野氏は、その経験から出てきた「そもそも科学って何」という疑問を養老氏にぶつけるのである。甲野氏のように根本から徹底的に考える人から見ると、いわゆる科学者の「科学的」な発想が納得できないのである。


(養老)「日本は科学風とか、科学的というのは成り立つけれど、科学は成り立たない(笑)」


(甲野)「すごく納得ができました(笑)。養老先生は「科学的」という言葉を褒め言葉としてでなく「一見、科学みたいだ」という意味で使われているわけですね。」

科学は方法論であって信じるものではないということである。次の甲野氏の言葉は、こういう超合理的な人が言っていることに意味がある。


呼吸法を説きながら私の意見を言うと「その人の主体的判断を奪ってしまう」という感じがすごくするんです。人の美意識を鈍らせてしまうのが一番こわい。その人がその人であり続けるのは結局は美意識しかないと思いますから。

そこを奪われた状態を「センスの奴隷」と言うのかもしれない。