朝日新聞は読者を「信頼」できるか?

俺はSARSは生物兵器でないと言い続けている。もしこれが違っていたら訂正してお詫びする。自分がどこでどう間違えたのか検証するつもりだ。それは、ここを読んでいる人は俺を「信頼」して読んでると思うからだ。検証することで、その「信頼」を保ちたいと考えるからだ。たとえ間違ったことを言っても、ちゃんと謝罪し検証すれば「信頼」を失わないと俺は思っている。

つまり、俺はここを読んでいる人を「信頼」している。このような意味で朝日新聞は読者を「信頼」しているだろうか?

戦争中に朝日新聞は一番煽りのキツかった新聞だそうだ。冷戦中に朝日新聞は東側諸国を礼賛し、たくさんの人を北朝鮮に向かわせた。そして、今度は朝鮮語の読めない記者が朝鮮語の封筒を読んで住所を報道してしまった。いずれに対しても、充分な検証をしてない。朝日と読者の関係は、俺と読者の関係とは違うのだろう。

朝日の読者は朝日に「安心」を求めている。絶対的な無謬性を求めている。「信頼」はミスを乗りこえることができるが、「安心」はミスによって失われ、二度と帰ってこない。一度でも間違いをおかしたら「安心」は裏返って挽回できない「不信」となる。朝日はそのような読者像を持っているのだと思う。

そして、その読者像は正しいような気がする。朝日はそのような読者によってささえられており、それを失なえば、言論機関としても企業としても崩壊するだろう。その見通しは正しいと思うし、そうであれば朝日が一切謝罪しないのは非常に合理的な行動であるとみなすべきだ。

それが、朝日新聞が謝れない理由に書いた蛙とカオナシの関係なのである。