オープンソースに引きこもる蜜蜂

越境できない蜜蜂は「オープンソースという閉じた世界に引きこもってないで、外へ出てきなさい」と読めてしまった。

「ユーザ=技術者」という言葉が、例えばdebianを使いたければ数千のパッケージのソースを全部理解してから使え、ということを意味しているなら、それは敷居が高い。だが、もちろんこれは誤解である。一方に企業によって完全に管理されたプロセスがあって、他方に「商品」を受動的に亨受するだけの「消費者」がいるという世界観から、オープンソースを理解しようとすると、そういうふうに見えてしまうのだろう。この世界観よりは、「完全に管理できないプロセスが存在する」という世界観の方が現実に近いように俺には思える。「消費者」がプロセスの一部になる方が現実的な解だと思う。それが「ユーザ=技術者」だ。

企業においてオープンソースにおいても、完結した技術を一人で理解し管理できる人はいない。必ずたくさんの人が関わってモノを作っている。企業においては技術者たちは「安心」の輪でつながっている。オープンソースでは「信頼」の輪だ。

例えば俺はまつもとさんとRubyのコミュニティを信頼して、Rubyという言語にコミットしてamritaを作った。これにコミットしてくた人が、AsWikiやHikiを作った。Hikiにコミットした人がプラグインやテーマを作って、たくさんのサイトを作った。そのHikiサイトにコミットして何かを書く小人さんたちがいる。みんなの視野は限られているが、自分の見える範囲で責任を持って何かを信頼している。盲信しているわけではなく、ちゃんと調査して比較検討した上で決断している。自分の時間から少しの時間をかけて何かの仕事をしている。これが信頼の輪だ。

  • 信頼の輪に参加するために自分の能力以上のことを求められた人はいない
  • 信頼の輪に参加するために自分の人生にかかわるポリシーを曲げることを強要された人はいない
  • 信頼の輪に参加するために将来にわたって何か保証することを求められた人はいない

就職しようとするとたいてい上記の三点を求められる。ところが、企業というプロセスは「閉じている」と言われず、オープンソースというプロセスは「閉じている」と言われる。

世の中に「消費者」がたくさんいるのは現実だ。でも俺は、それが現実ならそんな現実を拒否する。信頼の輪という充分機能するシステムを安心の輪に変えないことを指して、「閉ざされている」と言われるのなら、閉ざされていると言われても仕方ない。閉ざされた「オープンソースという幻想」の中で一生引きこもっていようと思う。それで充分、楽しくやっていけそうだから。