無題

サッカーというゲームは「ボールをゴールの前まで持っていくゲーム」と「ボールをゴールの中に入れるゲーム」というふたつのゲームで構成されている。前者のゲームでは、戦術とかフォーメーションとか理論とかそういうものが有効だが、後者のゲームでは理屈なしにただゴールか否かという二者択一だけがあり、それ以外のものは何もない。そして、両方のゲームで勝利しないとサッカーの試合には勝てない。

これがくっきり表われるのがPKの時である。最初、俺はPKで得た得点も普通のゴールと同じように蹴った奴の得点として記録されることに疑問があった。PKなんてものは、俺が蹴る側でキーパーがチラベルトだって簡単に入る(なんてことはいくらなんでもないがそれでも何回もやれば一発くらいは入る)。誰だって入るPKと、瞬間的な判断と驚異的な技術と回りの敵味方の位置と動く方向を見極める四次元的な知覚力を要する試合の流れの中でのゴールが個人の記録として同等に累積されることに違和感を持っていた。

しかし、PKは誰でもほぼ確実に入るだけに、はずした時に背負う十字架もハンパなものではない。ワールドカップでPKをはずしたりしたら、一生「ワールドカップでPKをはずした男」という烙印の元で生きていかなくてはならない。その烙印は彼がその後でどんな偉大な記録をうちたてても消えることはない。唯一可能なのは、バッジョのようにもう一度ワールドカップに出てもう一度PKを蹴って決めることだ。しかしそのためには「ワールドカップで二度PKをはずした男」という、さらなる屈辱、挽回不能の不名誉を受けるリスクを冒さなくてはならない。

こう考えると、PKを蹴るというのはストライカーにとって割の合わない仕事だ。入った時には誰も誉めてくれないのに、とてつもないリスクがある。TOTOの逆みたいなものだ。「当ったら10円もらう、はずれたら1億円払う」ではどんなに当たる確率が高くても期待値はマイナスになる。

つまり、PKを蹴るという行為の中には何か計算不可能な要素が含まれている。PK以外の通常のゴールにも、同じ要素が(分離して取り出すことはできないが)含まれている。ゴールの前にボールを持っていくまでは、選手は常に確率(期待値)の高い選択を連続していくことを求められるのだが、ゴールに入れる時だけは違うのだ。何か計算と確率と因果律の外にあるものを選手は要求され試される。

そして、過去の日本代表は「ボールをゴールの前まで持っていくゲーム」では着実に進歩していたが、「ボールをゴールの中に入れるゲーム」では二流だった。今回の日本代表は、どちらのゲームでも均等に強くなっていることが印象的である。トルシエのおかげか世代の違いなのかどっちかだと思うが、どちらかは俺にはわからない。