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エンゼルスの長谷川が言っていたが、大リーグではオフのスケジュールが一切なくて、最後の試合が終わったら翌年のキャンプまで一切選手は球団に拘束されないそうだ。言いつくされたことだが、ドライで合理的である。例えば、あのファン感謝デーと称して選手が着ぐるみを着るやつ・・・、あれなどは何のために誰のためにやってんのか俺にはとんとわからん。

しかし、プロスポーツが見せるものである以上は、ファンとの親睦を重視すべきだという意見も当然あるだろう。それで、俺はこういうふうに簡単に結論の出ない問題は、競争で解決すべきだと思う。つまり、ある球団はこれまでどおりファン感謝デーも納会もゴルフ大会もやって、「一体感」なるものを強化する。他の球団はそういうものを一切やめ、大リーグ方式にする。また別の球団は、ファン感謝デーなどファンサービスにつながるものだけ継続し、うちわの行事はなるべく減らす。それぞれが違うやり方を取ってみて、どこが選手に評判がよくてファンに評判がいいか競争するのだ。合理的にやってとにかく野球強くすれば結局は人気が出るのか、日本ではそういうクールやり方より、ファンとの一体感、球団内部での一体感を重視した方が、野球も強くなるしたとえ強くならなくてもファンは支持するのか。みんなが違うやり方をすれば、数年後には結論が出るだろう。

ところが、こういう多様性を容認する意見は、日本人は好きではないらしい。「もしファン感謝デーが無駄だとしたら全球団いっせいにやめるべきだ。そうでなければ、全球団が継続すべきだ」こういう方向に考えが行く人が意外に多い。俺がこれを実感したのは、しゃべり場というテレビ番組だ。 10代の少年少女が議論する番組だが、ここで不登校の話が出ると必ず話が紛糾する。それはある意味当然だが、よく話を聞くと、「行きたい奴は行けばいい。行きたくない奴は行かなけらばいい」という考えを、学校に行っている子は容認できないことから対立がはじまる。学校へ行っている奴に、「お前は学校へ行くな」とか「学校へ行くやつはバカだ」とか言ってるわけではなはい。ただ「行かないという選択肢がある」ということが容認できないのだ。言葉としては受けいれられても、現実に人間の顔をした選択肢が目の前にあると感情的に反応してしまう。

日本では競争と言えば、「どこの球団のファン感謝デーが一番楽しいか」という競争しか受けつけない。「ファン感謝デーのある球団とない球団の競争」、つまりシステムとシステムの競争は無意識に拒否する。同一のシステム枠組みの中でなら競争してもいいが、違うシステムと競うのを本能的に拒否する。だから、変化する時に全員いっせいに違うシステムに移行しようとするが、どのシステムがいいかは誰にもわからないし、議論しても簡単に結論の出るものではない。だから、結論が出るまではとりあえず現状維持で行くことになる。

サービス残業のある会社とない会社、銀行税のある自治体とない自治体、受験勉強を必死でやる学校とやらない学校。簡単に結論の出ないものは、全部システム間の競争でケリをつけるしかない。しかし、これに対する抵抗は10代の少年少女にもすでに植えつけられており、全員一致を強制する精神性は簡単に覆りそうもないなあ。