「場の雰囲気」という怪物

17才の少年たちのクッキリとしたメッセージと対照的なのが、雪印の役員たち。無責任さにもあきれるが、もうひとつ印象的なことが、みんな「自分の言葉」を持ってないこと。なんとなく、語る言葉が空虚だと思いませんか?

何か言えば言うだけ叩かれるのだから、言葉に詰まるのは当然かもしれないが、不用意かつ無計画に会社に不利になることをタレ流している様子を見ていると、言葉を飲みこんでいるようにも見えない。どの言葉にも戦略もなければ誠意もない。何ひとつメッセージがない。

いろんな役員がテレビに出てきて、性格や芸風はいろいろあるが、この「言葉の無さ」は共通している。この現象を一番単純に理解するならば、「言葉」を持ってる奴は偉くなれないということだろう。これを見ているとなぜか、東条英機を思い出してしまう。東条英機があれくらい品がなかったということではなく、「言葉」を持っていなかったということでもなく、「場」のふんいきに流されてしまうこと。

田原総一朗の本に書いてあったが、東条が開戦にふみきる前に一般の国民から「なぜ戦争をしない、この臆病者がああ!」というノリの手紙がものすごくいっぱい来たそうだ。田原は東条の娘さんから、直接そういう話を聞いている。つまり、あの戦争は偉い人だけじゃなくて国民自身も結構その気になってたんですね。もちろん情報操作されているのだし、そう思わない人は簡単に口を開けない状態だったのだが、場の雰囲気が開戦に向いていたのだと思う。彼は軍部出身だから、アメリカと戦争して勝てないことはよくわかっていたのだが、こういうプレッシャーに押されて戦争にGOサイン出しちゃったのである。

雪印の役員と東条英機の共通点とは、ここのことだ。つまり、両者とも「場の雰囲気」を感じとりそこに身を潜める能力に長けていて、それがズバ抜けていたから出世したのだと思う。これを長年続けていたら、「言葉がない」というのは職業病みたいなもので、当然のことかもしれない。

もっと言うと、両者とも道義的責任はあるとしても、職務権限として責任はないとも言える。どちらも、「場の雰囲気」を決裁する権限はあっても、それをねじ曲げる権限は与えられていなかったのだ。「それをねじ曲げる権限」は形式上あるのだが、これを行使しようとすると大抵の人間が失脚するように組織ができているのだから、これは職務権限としては実質的にないと解釈する方が無理がないと思う。

つまり問題は、この「場の雰囲気」という怪物が日本で暴れまわっていることで、これが若者たちを押しつぶし、企業を破滅させているのだ。 50年前には、こいつのおかげで随分ひどいめにあったのだが、今回はそうならないという保証はどこにもない。