自立

「自立」ってのは変な言葉で、実体としてはアナログなのに概念としてはデジタルになっている。どういうことかと言うと、「きのう、金を拾った」と言えば「いくら」と答えることは普通だが、「あの人は自立した人だ」と言って「どのくらい」と答えたらいかにも変だ。「そうだね」と言うか、「いや、あの人は自立してない」ということで、納得すればそれで話は終り、そうでなければ議論になってどちらが正しいか結着をつけなくてはいけない。結局、1か0か○か×か、デジタルな概念として扱われている。

日本語っていう言葉は、もっとニュアンスのある繊細な言葉だったはずなのに、どうしてこんなことが起きるのか、変だなと思ってよく考えてみると、そもそも「自立」なんて、これは日本語じゃないのかもしれない。外来語として輸入した概念はだいたいこういう扱いを受けているわけで、こういうことがどれだけ我々の毎日の生活をゆがめているか、見直した方がいいかもしれない。いっそのこと「私は1000円分は自立している」とか、外来語の頭には必ず値段をつけて言う。ばかげているようだが、私はマジで言っているのである。

完璧な自立ということなんてありえない。普通の意味で自立しているというのは、たいてい、西洋的な合理主義への依存であって、そういう人は目の前に日本的なあいまいな人間がうろちょろしてると、怒りだす。つまり、自立という言葉に秘められた深い陰影に入りこまないで外側から離れて見ているから、乱暴に二者択一の議論ができてしまうわけだ。もちろん、金額などいう一次元的な数値で形容しても実体にほと遠いのだが、とりあえずデジタルなものではないと意識できるだけずっとマシだと思う。