宗教がらみの日本人の非常識

「逆説の日本史6」が面白い。例えば、日本の僧侶は妻帯しているが、これを教義の中できちっと位置付けているのは親鸞(浄土信宗)だけだという。仏陀はもちろん、インド、中国、日本にあまた現れた、偉い坊さんの中で、「SEXしてもいいよ」と言った人は他にない。では、なぜ日本では何宗であろうと結婚しているかというと、何と「明治政府が許可したから」だそうだ。 *宗教*で食ってんなら、嘘でもいいから「仏様が夢に出て来て結婚しなさいと言った」とか「実は秘密のお教にそう書いてあった」とか言えよな!

それから、瞑想というのはやり方によってはドラッグみたいなもので、ハイになれる。これは決まった手順を踏めば誰でもできることで、これが宗教的な意味を保証することはない。オウムの信者はここを勘違いして、自分の神秘的体験=教祖のエラサの証明と思っちゃったわけだ。ここらへんの危なさを禅では「魔境」と言う言葉で表していたのは知ってたけど、何と昔の日本人は庶民でもみんなこういうことを知っていたそうだ。その証拠に「野孤禅」と言う言葉があって、これは非常に一般的に使われていたそうだ。

私は思うのだが、宗教というのは本来危ないものである。火薬やアセンブラバイアグラのように、素人がヘタにいじると危険だけど、危険な所に意味がある。そして、危ないけどなくてはならないものだ。だから、自分で触ることはなくても扱い方を知っておいたほうがいい。井沢さんの言うとおり、日本人は宗教に対する一般常識がなさすぎる。法律より教祖の言葉が絶対なのは当然だしそうじゃなければ本当の宗教じゃない、人を救えない。だから、社会の中に置いとくのは危険だし相当な覚悟がいるものだ。

もうひとつ言えば(これは私の考え)、「人間は宗教がなくても生きられる」というのが最も大きな非常識。やっかいなものだけど、なくてすませるものではありません。大半の日本人は無宗教といいつつ、会社とか世間とか科学とか和とか、そういうヘンなものを宗教のかわりにしているだけだ。自覚がないだけに、こういうものに随分ふりまわされている。あげくのはてに、へんなオカルトにひっかかったり、過労死したり、好きでもないガングロにしたりする。

この自覚のなさからくる問題点を外側から指摘するのが井沢元彦で、内側から指摘しているのが河合隼男だ。どちらも現代日本人必読の書だと私は言いたい。