GPLを認められない人種

Linux Magazine12月号の「隠喩としてのコンピュータ」というコラムに「ストールマンの主張する自由にわかりにくさがあるとすれば、つきつめれば、自由を前提とするコミュニティがわかりにくいからだろう」という鋭い分析が出ていた。例えば、RADICAに書かれているMorphy Oneの開発日記を見ていると、こういう「コミュニティ」というものがよくわかる。よくわからないかもしれないけど、とりあえずそのパワーだけはわかる。とうとう「コミュニティ」がハードまで作るようになった。このまま行けば、こういう動きがパソコンと関係ないものに手を広げるのも時間の問題だ。

GPLのわかりにくさは「コミュニティ」を知らないからというのは確かだ。目がさめるような鋭い指摘だが、それだけならこれは時間の問題で、こういうかたちで「コミュニティ」の成果が目に見えるかたちでいろいろ現れてくるだろう。しかし、それだけで問題が解決するのだろうか。つまり、GPLの意味をみんなが理解するのだろうか。知っていてもそれをなかなか認められない人種がいるような気がする。