半導体は書物である

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)
過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)

ABAのサイトのアルファブロガーリスト等のページに、ブログのリストがあるが、そこに小さなアイコンが付属している。

私の場合は、自分のサイトで使用しているこの似顔絵を小さくクリップしたものが使われている。

上の似顔絵が下のようにクリップされている。

こちらのページに出ているデザイナーの方がされたことだと思うが、クリップしただけなのにぜんぜん印象が違う。「さすがにプロの仕事は違う」と感心した。

「切り取る」ということは、それだけでものすごく創造的な作業になり得るのだ。

「過剰と破壊の経済学」も、我々が生きているこの時代の社会や経済のある側面を切り取ったものだが、そのクリッピングは非常に創造的な仕事だと思う。

たぶん、このブログを読んでいる方にとっては、この本に書かれていることは知っていることばかりで15分で読めるかもしれないが、その15分は非常に濃縮された価値の高い時間になるだろう。

一般にコストダウンに限界があるのは、ボトルネックとなる資源の制約のためである。たとえば、自動車の技術革新がいくら進んでも、その価格は原材料の鉄の価格以下にはなりえない。しかし、シリコンの価格は、それを精製したり回路を設計したりするコストに比べると無視できるので、半導体の価値はそこに書き込まれる情報(回路技術)の価値で決まる。この意味でも、半導体は書物に近い。(P32)

その15分ももったいなければ、この一節だけでも覚えておくべきだ。「半導体は書物に近い」のである。

書物に近いということは、どんなに高いチップでも一定期間がたてば紙の値段になるということだ。

ブックオフに行くと少し前にベストセラーになった新書はたいてい100円で売られているが、全ての半導体はそういう運命にある。携帯もパソコンもルーターも、その中にある半導体はいずれ100円になる。電源やディスプレイやキーボードは半導体ではないので、製品自体の価格がそこまで下がるとは限らないが、その中にある半導体はいずれに100円になる。

たとえば、英文翻訳のメモで紹介されていた、VideoTraceという、立体をキャプチャするソフト。

こういう凄い技術もいずれ100円になる。もしこれが本当に凄いものだったら100円になる。

最初は高価なプロ用のCADソフトとか映像編集用ソフトとして売られるかもしれない。ハイエンドの市場である程度利益を上げたら、普及版として少し機能を限定した廉価版を出すだろう。そこであまり儲けようとすると、オープンソースで似たことをやりはじめる人が出てくる。中身を隠しても、動くソフトを解析して内部の動作を推測するのは、一から作るよりずっと簡単だから、それをする人がいるだろう。開発元はそういう動きを横目で見ながら、少しずつ価格を下げていき、最後にはアップルかマイクロソフトに売り、OSの標準機能になる。

ほとんどのOSにこの機能が実装され、最後には、この機能をハードウェア的にもっと簡単に行なう専用のチップが開発され、そういうチップが携帯やデジカに内蔵される。

そういうカメラで誰かを撮ると、すぐにその人にモデリングソフトで指定した姿勢や指定した動作を思うままにさせることができるようになる。

Wiiの中で自分と友達が対戦格闘ゲームをするようなことがすぐにできるようになる。そうなったら、ニコニコ動画でも、これを思いもよらぬくだらないことに使う奴が出てくるだろう。

この技術がそうなのかはわからないが、現代における画期的な技術というのは、こういう道筋をたどる。

急速に普及する中で、ある段階に至ると突然金を生むようになり、瞬間的に注目を集めるが一気にコモディティ化して100円になる。そして、100円になった時に、次の技術革新のインフラとなるのだ。新しいインフラは必ず次の技術革新を生むので、次のネタに困ることは当分ない。

それと、もし立体のキャプチャと再編集が実用化されたら、監視カメラの映像というのは無意味になるかもしれない。動画の中で、誰かに特定の場所で特定の動作をさせること、そういう編集を行なうことが、家庭用のパソコンで自由自在にできてしまうからだ。

だから、こういう波が来るたびに、それによってさまざまなルールが変わる。

現代の経済に関して最も重要なことは、その基盤に、こういう本質的に不安定な構造があるということだ。「過剰と破壊の経済学」はそういう構造を鮮かにクリップしていると思う。

すべての現象は言語化された差異の束である、とソシュールが講義したのはちょうど100年前。それを継承したヤコブゾンやレヴィ=ストロースなどが社会科学の全体像をすっかり変えてからも、経済学だけは18世紀の古典力学の世界からほとんど出ていない。そこでは均衡という概念を媒介にして、認識と存在が一致することになっている。

「均衡」を重視するのは経済を量としてとらえるアプローチだ。半導体は量ではなく、言語(差異の束)としてとらえる方が確かに実態に即している。

半導体は書物なのだ。

おまけ→ムーアの法則とインフルエンザ - はてなハイク

身の程の不確定性と社会の説得力

考えてみれば、「お前が出世できないのはお前の生まれた身分が低いせいだ」と言われるのと、「お前が出世できないのはお前に実力が無いせいだ」と言われるのでは、後者の方が救いが無い。「身分の違いだから仕方が無い」と言う言い訳は、自我を守るための防衛機制としても良くできていたのだろう。

身分制度は民衆の不満を多く生じさせるシステムだが、その不満を低減する仕組もそれなりに用意されていた、と言える。

「社会の説得力」という観点では、身分制度にも一定の合理性があるという話。

もう少し細かく言うと、上に立って社会を率いる立場の人たちの中に分業があるということではないだろうか。

つまり、高い身分の人というのは、その下に参謀とか番頭といった、実際の判断を行うブレーンをかかえている。今の官庁で言えば、課長補佐くらいの人が、実質的に物事を決定したり判断したりしている。でも下から見れば、そういう実質的なリーダーの姿は見えなくて、身分の高い人しか見えないようになっていて、下を納得させるのはそういう人の役割になっている。こちらの仕事には代役がいなくて本人が直接行なわなくてはいけない。

帝王学というのは、戦略とか情報処理ではなくて、上に立ってどれだけの説得力を発揮できるのかという所作の問題で、だから、バイオリンとかピアノと同じように、小さい頃から仕込まないとどんなに才能があっても身につかないものなのかも。

封建社会の対極に位置するのがアメリカンドリームなのだが、身分制度アメリカンドリーム制度の違いを端的に表現するとすれば、「努力する前に諦めさせる」vs「努力し過ぎて取り返しがつかなくなるまで諦めさせない」ということになるかと思う。両者の中庸がベストではないかという話になるが、下手をすると両方の欠点を併せ持ったものができあがってしまう。

ちょうどこれに関連しそうな、社会心理学の実験の話があって

報酬体系の格差が大きくなると能力の高い人(迷路を解くのが上手な人)ほど頑張るが、苦手な人はやる気をなくす(特に、出来高払いでの成績が知らされているときはそれが顕著になる)。そのため迷路がとけた総数は、報酬体系が単純な出来高のときと一番不平等な時で少なく、中ぐらいの不平等な報酬の時が一番多かったということだ。

能力と報酬は、無関係でもいけないが単純に連動しているのもよくない。微妙にズレを持ちながらつながっていると、能力の高い人も低い人も両方がそれなりに努力するという話だ。

しかし、日本の「失なわれた10年」は、社会全体の説得力を破壊して能力主義を導入しようとしたが、肝心の能力の高い人に対するインセンティブを高めることにも失敗している。折衷的な中途半端な出来高性がうまくいくとも限らない。

「身の程をわきまえる」という言葉があるが、自分の「身の程」が誰にでも自明であるという前提に問題があるのではないだろうか。

「身の程」の不確定性が増していることで、社会の説得力とインセティブが両方失われているのだ。そして、日本は、「身分」というインフォーマルなシステムを温存してきた分だけ、「身の程」の自明性に深く依存した社会システムだったから、ダメージが大きいのだ。

日本では、身分が高く能力があっても、身分が高くて能力がなくても、身分が低くて能力があっても、身分が低くて能力がなくても、それなりに生きる道が用意されていた。本人も満足して、社会にとっても最大限のパフォーマンスを発揮できるようになっている。

ただ、自分の「身の程」がわからないとほぼ確実に不利になるようにできている。だから、誰も「身の程」を知ることに必死になるのだ。「身の程」を知らないで幸福になれる可能性はほとんどない。

「自分探し」というのは、実は自分の「身の程」を求めていて、それがわかるまでは社会に出たくないということだし、嫌儲というのは、自分と相手の「身の程」の違いを確認したいという欲求の暴走なのではないか。

しかし、不安定な「カオスの縁」を基盤とした社会になっているのに、社会にとっての自分の能力を正しく測定できるものだろうか。

だから、「身の程」を知らなくても安心して暮らせる社会が活力ある社会になるのではないかと思う。

自分の「身の程」を間違えたって恥ではないし、誰にも迷惑をかけることはない。むしろ、それが当然のことで、今はどんな人にも自分の「身の程」がわからない、そういう仕組みの社会になったのだよ。そういうアナウンスをして、その通りの社会にしていけば、インセンティブの具合は今のままでも、ずっと住みやすくなるし、経済も発展すると思う。