再提言:世代別二院制

しかし、今の高齢者各位に、なんと言えば私よりも若い人たちの抱える絶望感が伝わるか、私自身まだ言葉を持ち合わせていない。本書の書き方では、よほど人間の出来た人でないとダメだということはわかる。しかしどういい直せば彼らの飲み込める言葉になるのかが、わからない。

私はかなり奥さんに尻に敷かれている方ですが、それでもごくまれに妻を叱りつけることがあって、そのうち一つは彼女が鏡を見ながら「若い人はいいわねえ」と言った時。

「今の若い人の気持ちを自分たちが若い頃の経験で推し量ってはいけない」

とマジで怒りました。

お肌の問題に悩んでいる女性にこんなことを言うのは明らかにコンテキストがずれている応答なので、その時は無茶苦茶な夫婦喧嘩になりましたが、折に触れ、そういうことを一年くらい言い続けていたら、ある時突然、これと言ったきっかけもなく「今の若者には『未来』が無いんだ」ということをストンと理解しました。

40代くらいでも、こういう感覚がわかってない人は多いんですが、この世代だとだいたいきちんと言えばわかるし、そうでなくても何かの拍子に突然理解することはあります。

50代以上だとそれがあり得ない感じがします。ものを考える人でもそうでない人でも、全く同じようにそれを受けつけない。人間として尊敬できる面をたくさん持っている人でも、若者理解のある面だけがスッポリ抜け落ちているように感じます。

頭が悪いとか感受性が欠けているというより、若者の絶望感を語るその言葉だけはどうしても「飲み込めない」という感じです。

それで、どうしたら伝わるかいろいろ考えたんですが、その「飲みこめなさ」を主題化して共有するという戦略はどうかなと思います。

参議院衆議院二院制は廃止して長期的な政策を考える「長期院(長院)」と単年度の予算だけを決める「短期院(短院)」の世代別二院制にする。そして、長院は選挙権も被選挙権も20才〜40才に制限するのだ。 40過ぎたら、自動的に長院の議員にもなれないし長院議員の選挙に投票することはできない。もう次の世代に託すわけだ。

長期短期で利害がぶつかる時は、長期優先。例えば、赤字国債をどれだけ出すかは長院が決める。そこで予算の枠を決めて、その枠の中をどう分配するかは短院が決める。目先の政策は全員で決めるべきだけど、先のことは若い人の方が関係するんだから、そういう人が主体で決めるべきだ。

たとえば、こんな制度について、高齢者の意見を聞いてみるわけです。

そうするとまず高齢者の側の利害特質についていろいろ意見があるでしょう。それで、その部分についてはなるべく高齢者の意見を聞いて「短期院」の側の権限を増やしていく方向で調整する。

そこを調整していったら、最終的にはこの制度の是非の問題は、高齢者にとっては「自分が死んだ後の日本」ということになるわけです。

彼らは「死んだ後のことだから自分は関係無い、若い連中の好きにすれば」と言うかどうか。

私は、たぶんそうは言わないと思います。「とても今の若い連中にこの国をまかせることはできない」と言うのではないか。「この制度ができれば、若者も自分たちの問題としてもっと真剣に政治に取り組むようになりますよ」とか説得してもなかなか納得してくれないような気がします。

そして、こういう問答をすることで、「高齢者の側にある若者への根深い不信」を炙り出すことができると私は思うのです。

その不信の理由は何かと言えば、若者が絶望しているからで、しかもその絶望から救い出す言葉を自分たちが持ってないことを認めなくてはならないから。

どうにかして、高齢者の「不信」と若者の「絶望」をつなげることができれば、対話が成立するのではないでしょうか。

私は、6年前に自分で考えついたこの「世代別二院制」が気にいっていて、もし実現したら実際に制度としても非常に有効だと思っていますが、それ以上に、思考実験的に使ってみた場合に、この「不信」と「絶望」を可視化するツールとして使えるかもしれないとも考えています。

ずっと高齢者のターン

今の高齢者も若い時に搾取されていたのかいないのか

これが重要な視点だと思う。

今の高齢者も若い時に搾取されていたし、上の世代から圧迫されていた。そこだけ見たら、今の若者より大変だった所も多いと思うけど、その代わりになるものがあった。彼らは「10年たったら、20年たったら俺の番だ」と思えたのだ。

この感覚が若い人にはわかりにくいと思うので、その実感がどのように生まれたのかについて、思いつくままいろいろ書いてみる。

一番わかりやすいのは、投資のリスクという話だと思う。

右肩上がりの経済で一番楽なことは、投資に失敗が無いということだ。銀行から借金をして、土地を買い工場を立てる。経済が右肩上がりに成長しているから、その工場をヘタに経営しても儲けるのが楽だけど、それ以上に失敗した時の始末が楽であることが重要。黙っていても土地が値上りするから、しばらく待って土地建物を売り払えば、投資は回収できて借金は残らない。

90年代に金融機関の経営者が揃ってこれをやって傷口を広げたのはご存知の通り。

もちろん、このメンタリティで実際に投資や融資の判断をした人はごく一部だけど、この「何もしなくても黙っていればそのうち問題は解決する」という意識は、一般庶民の間でも共有されていたと思う。

若者は「黙って待っていられる」期間をたくさん所持しているので、何事にも有利だった。

一戸建てを買うということも、投資としてリスクとリターンを予測して判断したり、自分の人生を設計するという意識ではなく、多少の無理をしても銀行にローンを認めさせれば勝ちという感じだ。

ベアという言葉もほとんど死語になっているけど、給料も何もしなくても毎年上がるものだった。インフレだから物価も上がるのだけど、実感として手取りが毎年上がることから受ける刷り込みは大きい。

音楽でもそうで、80年くらいまでは、知らない曲を聞いてもそれがいつごろの曲かおおよその判定はできた。ギターのエフェクターは一方的に種類が増えていくし、ドラムの音は一方的にクリアになっていくし、ビートは、4→8→16と一方的に細かく緻密になっていった。

私は鉄腕アトムをリアルタイムで見たけど、そこに描かれている21世紀の未来都市に向かって自分が今生きているこの社会が着実に進歩していくと思っていた。

「世の中が輝かしい未来に向けて着実に進歩している」という意識があれば、たいていのことはガマンできるものだ。

そして、自分が一切の主体的判断をしなくても、世の中は輝かしい未来に向けて着実に進歩していくと、大半の人は思っていた。

もちろん、右肩上がりの経済でも倒産する会社があったように、そういう時代にも悲観的な人や絶望的な人はいたと思う。でも、回りがみんな輝かしい未来を信じている時には、悲観したり絶望したりするには努力というかエネルギーが必要である。特別の知性やエネルギーの無い人並みの人は、普通に学校へ行って普通に就職して普通に出世して普通に家を買うという人生に流されていくしかなかったのだ。

エスカレーターと階段の違いのようなもので、転落するというのは上りのエスカレータを逆走することを意味していた。

これは、団塊世代でもかなり特殊な人だと思うけど、特殊なだけにくっきりとこの世代の意識を写している所もあると思う。

「同人誌」も「個人誌」も「自費出版」。詐欺商法は悪いが、正直、騙された人は世間知らずすぎ。たった何百万だか払えば全国の書店に並ぶとなぜ思うのだ。自分が出版会社側なら、採算とれるか考え以下略

そういうふうに世の中の仕組みを考えなくても、十分生きてこれたのである。

というか、裏付けのない夢を持つことがむしろ奨励されたのである。

だから、高齢者も若い頃は、今と同じかそれ以上に搾取されていたのかもしれないが、「輝かしい未来」というコモンズ(共有地、共有財産)を与えられていた。それを食い散らかしてそのまま逃げようとしていることに無自覚であることが、私にはフェアでないことのように思える。

また、「輝かしい未来」というコモンズ無しで生きる知恵にしても、それを再興するための努力にしても、若い人の方がずっと真面目に考えていると思う。

年寄りは「ずっと俺のターン」と言い続けている恥知らずなフリーライダーにしか見えない。

Dan the Shameless, but Conscious, Free Rider

この署名がカッコいいなあと思ってしびれてしまったけど、私も、せめて、自分が何の上に乗っかっているかについては、できるだけ自覚的でありたいと思う。

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