武勇伝を忘れる勇気


オリエンタルラジオ 武勇伝

  • 「あっちゃん、渋谷まで山の手線で一本だな」
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ銀座線」
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ半蔵門線
  • 「いやだ!」
  • 「じゃあ埼京線?」
  • 「いやだつってんだろう!」
  • 「どうして!」
  • 「誰かの敷いたレールの上を走るなんてもうまっぴらなんだよ」
  • 「あっちゃんキャッコイイー!」

日本では、公的なルールというのは、誰にでも平等に適用され、誰もが真剣に守るものではなくて、常に適切なポイントより少し前に置かれる線である。

制限速度が40kmだったら、誰もが39km以下で走るわけではなく、それよりちょっと上の45kmとか50kmで走る。40kmピッタリで走ることは、どちらかと言えば顰蹙を買う行為で、悪くすれば煽り運転とかのひどい目にあう。

ルールというものはそういうもんだということを、学校の中にいる間に体で覚える。校則や先生の言うことをきちんと守る奴は、どちらかと言えば、ガリ勉キャラや風紀委員キャラとして嫌われる危険性が高い。人気があるのは、それをちょっとハミ出す「武勇伝」を持った人間だ。

この公的な制度やルールをちょっとハミ出す「武勇伝」的な感覚は、社会に出てからも必要とされる。教室で覚えるべきことは、勉強だけではなく、そういう「公的なルールを補助線として、どのくらいそこからはみ出た所に、適切なラインがあるか」感じ取る能力だ。

バカッター騒動を起こしてしまう人は、鈍感で非常識な人なのではなく、むしろ、そういう「武勇伝」的感覚が敏感で、友達の多い、ある意味では社会性のある人なのだと思う。少なくとも誰もが動画を共有して一緒に楽しむ友人を持っているからこそ、それを撮影、投稿してしまったのだろう。

もちろん、交通法規でも制限速度とは違って、たとえば、一方通行なんかを破ればすぐにトラブルを起こすし、一発アウトで取り締まられる可能性も高い。言われている通りに厳守すべきルールもあり、そうではないルールもある。本来の社会性とは、その違いを見抜くことも含まれていて、そこは欠けていると言わざるを得ない。

しかし、日本の伝統では、「やんちゃ」が行き過ぎた場合、一発アウトとなるケースは少なく、多くは偉い人の裁量によって処分が決められる。

スクリーンショット違法化という流れも、そういう伝統に戻したい人の意向が多く反映されていると思う。そういう場面の裁量権が権力の源泉だからだ。誰もがラインの少しだけ外にいて、誰を捕まえるかを裁量で決められる状態が一番都合がいい。

動画や音声が気軽に飛び交うインターネットというものは、人治主義と相性が悪い。

バカッター動画も関係者の本音としては「今回だけは大目に見てやるからもうするなよ」と一つの「武勇伝」として終わらせたい所ではないかと思うが、動画があちこちで共有されてしまったら、そういう裁量を効かせる余地がない。

やっぱりテクノロジーは、強引に世の中を変えてしまうと思うが、「ブランド」というものもその中で再考を迫られると思う。

不適切動画は、その店ではなくブランドを傷つける。みんなどことどこの不適切動画が騒動になっているか知っていると思うが、それがどこの県の何店なのか即答できる人は少ないだろう。みんな不適切動画の強烈な印象にブランド名を被せて記憶する。

今までは、ブランドが大きいほど有利だった。一つのテレビコマーシャルが全国何百件全部の店の宣伝になるからだ。

しかし、不適切動画を撲滅するのは、店の数が多いほど困難になる。どこの世界にも先生の言うことをそのまま真面目に聞かない人間が少数存在する。ブランドを持つ店の大半で適切な指導をするのは可能だが、全部というのは困難だ。先生の言うことの多くはタテマエだと学習した人間の何割かは、店長やスーパーバイザーが厳しく言ったことも同じように受け取る。これは「武勇伝」を作るチャンスだと。

「あっちゃんかっこいい」はどう見ても、あっちゃんを痛い人として笑ってもらうためだが、そういう「あっちゃん」はどこにでもいるのだろう。

むしろ、こういう事故はごく少数はどうやっても起こるもんだとして、その被害範囲を狭くする工夫をした方が現実的だと思う。つまり、ブランドを分断して、たとえば、コンビニ名がその県の中でしかないブランドだったら、その県以外の人は不適切動画を見ても笑って自分の家の近くのコンビニには気にしないで行ける。

ブランドが大きいことが有利な理由は、ほとんどマスメディア上での宣伝のためなので、SNSを使えば、同じくらいのコストや労力で小さいブランドを個別に展開していくこともできるのではないだろうか。

今一番重要な教育は、「忘れる」ことを教えることである。

不適切動画予備軍に、「SNSへの投稿は注意すること」とか「食品を必ず衛生的に扱うこと」とか説教しても意味がない。「武勇伝」という概念の危険性を教えなくてはいけない。物理的な証拠があったら裁量の効かせようがないので、法律通りに処理される。ルールを教えるのではなく、「君が学んできたルールのとらえ方を忘れなさい」と教えなくてはいけない。

とりあえず、教室という空間で長く生きた経験を持つ人は、そこで知らずに学んでいることを総点検した方がいいと思う。そこで学ぶことは無意識に学ぶことも含めて社会で役に立つものが多かった。だから、制限速度の標識から本当に走るべき速度を知るということの、数字では表現できないもっと難しいバージョンを、みんな覚えていて、しかもそれを学習したということを意識してもいない。

そういう裁量ベースのルールがすぐに消える訳ではいが、これから「裁量」が物理的証拠と対立した時どうするかの激しい葛藤があちこちで起こる。意識的でいないと思わぬところでその葛藤に巻き込まれてしまう。だから、何を覚えたかではなくて、自分が何をどこでどのように学習したか点検して、必要に応じて、それを忘れることが重要だと思う。「裁量」や「武勇伝」以外にもそういう忘れるべきものがたくさんあるだろう。

サマータイムによって組織の決断力が問われるのかもしれない

サマータイムに対応する方法は3つある。

  • なにもしない
  • うまくやる
  • きちんとやる

「きちんとやる」とは、「コンピュータが処理する全てのデータの時刻について、オフセット値を明確に定義した上で、そのデータの処理方法が適切か確認する」ということだ。

簡単に「きちんとやる」を行なうには、システム時刻、データベース、通信をUTCに統一し、画面上の入出力などでは既存の国際化ライブラリを使えばいいだろう。この考え方であれば、オフセット値がどうなるかはその項目が人の目に触れるものであるかどうかで判断できる。

全ての時刻の項目を見直すというのは、プログラマの作業量としては膨大なものになるが、個々の判断は簡単なことが多い。

「なにもしない」は、コンピュータのプログラムもシステム時刻も一切変更しないというものだ。時計に「9:00」と表示されていたら、人間がそれを見て「ああ、今7:00 か」と読みかえる。10:00 に買い物をしたら、8:00と印刷されたレシートを客に渡す。

こちらは、いちいち読み替えをするユーザの負担が大きくなるが、やれないことではないだろう。

「きちんとやる」と「なにもしない」は、作業量は大きいが不確定要素は少ない。

しかしおそらくこの二つは多くの場合、受け入れられず、たぶん、ほとんどの社長は「うまくやれ」と言うだろう。

「うまくやる」とは何かと言うと、ある部分では「きちんとやる」をして、ある部分では「なにもしない」を選択するということだ。「きちんとやる範囲はどこですか?」と聞けば社長は「それを考えるのがおまえの仕事だ」と言う。

確かに、世の中には絶対に落ちてはいけない、わずかな不整合でも許されないシステムがある。そういうシステムには「きちんとやる」しか選択肢がない。そういうシステムをリストアップすることはエンジニアの仕事だし、できるだろう。

また、すでに「きちんとやる」に近い形で構築されているシステムもある。これについては、プログラマをちょっと投入することでユーザの不便を無くせるのだから、合理的に考えて「きちんとやる」が正解になる。

しかし、そういう優先順位でやっていくと、客の目に触れるレシートの時刻が二時間ずれているのを放置することになる。これでいいのだろうか?

また、「うまくやる」の一つの手段として、コンピュータの時刻を二時間動かすという方法がある。個人のデスクにあるパソコンなどは、これでいいことも多いが、そのパソコンの中で動いているプログラムは全て「きちんとやる」の路線からはずれることになる。つまり、今動いているプログラムをいくつか使用中止にしないと、パソコンの時刻を動かすという方法はできないかもしれない。

「うまくやる」とは、会社の中にあるコンピュータを白、黒、グレーに塗り分けることで、確かにこの塗り分けを適切にやれば、最小のコストで最大の効果が得られるが、これに失敗すると、「きちんとやる」で対応すべきシステムが動かなくなる。

「うまくやる」の中にある決断は、相互に関連するものが多く、技術と業務の両面をバランスよく見た判断が必要なものが多い。上位のSEで、その会社の業務をよく知っている人が多数必要になる。

つまり「うまくやる」には、不確定性が大きいという問題があるということだ。

この「なにもしない」「うまくやる」「きちんとやる」のどれを選ぶのかという決断が、これから日本中のあらゆる組織の経営者に求められるのだ。

損切りができる経営者なら「きちんとやる」を選択するだろう。「きちんとやる」なら、当初の予想より膨らむ可能性は少ない。また、基本方針が明確なので、個別の作業(小さい決断)が相互関連することは少なく、平行して進められる。一部の遅れが他に響くことが少ない。人が足りなくなった場合、その業務や会社のことを知らなくても、国際化のライブラリの使い方さえわかっているプログラマなら誰でもいいから人員さえ追加すれば、収束できる。

つまり、損が膨らまないことを重視するなら「きちんとやる」になる。

「なにもしない」は、負担をするのはプログラマでなくユーザになることが大きく違うが、損の性質はこれと似ている。会社にある時刻は全部二時間ずれているという状態を想定して、どういうトラブルがあるか考えればいいわけで、考えやすいし事前の対策もたてやすい。レジの横に貼り紙をして「レシートの時刻は二時間ずれています。すみません」と謝ればいい。

日本でサマータイム制を絶対に導入してはいけない技術的な理由の一部:技術屋のためのドキュメント相談所:オルタナティブ・ブログで例としてあげられているジョブのネットワークなどは、「なにもしない」が正解だろう。そうすると、一部のデータが営業時間に間に合わなくて、9:00開店なのに11:00までコンピュータが動かないみたいな悲惨なことになるが、それでも、こういうのに下手に手を入れて一日中全く動かなくなるよりはましだ。

平常時でも、これのサマータイム対応を「きちんとやる」ことは難しい。まして、こういう複雑なバッチジョブのネットワークの経験がある技術者は、これから二年間確保することが非常に難しくなる。無理に獲得しても、他とかけもちでここに集中して作業できなかったり、疲弊していたりだろう。期待できる技術のレベルが相当下がることは(払うお金はふだんよりずっと高くなるのに!)折り込んでおくべきで、重要な難しいシステムほど「なにもしない」が正解になる可能性は高くなると思う。

私は、駅の表示板や電車の社内モニターの時間が二時間ずれていても絶対に怒らない。今何時でいつ次の電車が来るのか自分で簡単に計算できる。運行制御システムのトラブルで電車が止まったり衝突したりするよりは、ずっといい。そういう損切りはアリだと思う。

損切りできない経営者は、「うまくやる」を選んで、果てしなく膨らみ続けるコストを払った上に、どうしようもない混乱の二年間をすごすことになる。


最後に余談ですが、これを入れて3本のサマータイムに関する記事を書いたのですが、最初のエントリのアイディアを思いついて、頭の中で練っている時、妻に「どうしたの、なんか顔色が悪いよ。具合悪いの?」と言われました。二本目を考えている時にも同じことを言われて、

  • サマータイムのことが心配でブログに何か書こうと思ってる」
  • サマータイム?仕事に関係するの?」
  • 「いや、うちの会社はほとんど国際化してあるから、仕事には関係ないんだけど...」
  • 「じゃ、何をそんなに考えこんでるんだよ。顔色悪いなんてもんじゃないよ。ほとんど死相だよ」

うちの妻はいろいろおかしなことを言うので、あまり気にしてなかったのですが、このエントリのアイディアを思いついた時には、「今、サマータイムのこと考えてるでしょ。そうだよね、また死相が出てたよ」と当てられて驚きました。

自分では、「このアイディアで書いたらバズらないかな」とか「こんなムキになって結局中止になったらカッコ悪いな」とか思ってるんですが、エンジニアがサマータイムについて考えてると意図せずとも死相が出てしまうらしいです。

サマータイム対応を0円でやるたった一つの方法

それは、実施日の10年前に告知すること。そうすれば、0円は言いすぎだとしても現実的なコストで問題なく対応できるよ。



自分にとってこれは、「明日から電卓の+キーで引き算をして−キーで足し算をすることに決めた」みたいな話に聞こえる。

誰がうれしいのかちっともわからないけど、「明日から」というところを「10年後から」にしてもらえば、何の困難もない。+と-のキートップの刻印を逆にすればいいだけで、電卓の設計には何の変更もいらない。キーの配置を変えてはいけないと言われたなら、中の配線を二箇所変えるだけ。「電卓の+キーと-キーを逆にすることは不可能である」なんて言う人は誰もいないと思う。

しかし、「明日から」と言われたら、今、あちこちにある電卓はどうするの?

付箋紙をキートップのサイズに切り抜いて、日本全国の家庭やオフィスで、明日の朝一番にそれを貼りつけて、「+」「-」という字を手書きすればいいだろうか。でも、文具店や100円ショップの店頭にあるものはどうする?開封して同じことをして、またパッケージに入れる?そんなもの売り物にならないよね。では、今店頭や倉庫にある電卓は全部廃棄して、新しいのと入れ替えるか。急遽増産したとして、それが行き渡るまでは、電卓が品不足になって値段が高騰するよね。

つまり、流通の途中にある電卓を修正するっていうことは、とても難しい。

電卓だったら半年くらいかな、流通の途中にある製品に手を入れないでいいようなプランになれば、それほど難しいことではないし、お金もそんなにかからない。

今ある工場の生産計画に合わせて、「次の製品から+-逆のキートップで製造してね」と言っておいて、それが十分に行き渡ってから、切り替える。そうすれば、「店頭で全店員総出で電卓を箱から出して、キートップにシールを貼り、また箱に詰めて陳列棚に並べる」なんて、変な作業は発生しない。

それでね、この話で重要なことは、電卓の基盤とか筐体を設計している人が「そんな変更は簡単です、すぐできます」と言っても信じてはいけない、ということだ。むしろ、文具店や100円ショップの店長みたいな人に聞くべきだ。

これは、電卓の専門家でなくてもよくわかる話だし、説明するのも簡単だ。電卓の在庫の山を見せて、その在庫の山の前で、電卓を箱から出してキートップにシールを貼って、また梱包する、そういう一連の作業を見せて、「明日までに、この山を全部消化しなきゃならんのです。社員総出で徹夜でやってますが、とても間に合いません」と言えばいい。

まあでも、ソフトでも同じです。

残業計算でも電車の運行管理でも航空管制システムでも電波時計でもビデオレコーダーでもなんでもいいけど「次の製品からサマータイムするのに、どれくらい余分にかかる?」と聞いてみたら、99%は「別に、次の製品サイクルから対応するなら大した問題じゃないよ」って言うだろう。まあ、さすがにコンピュータで、1%くらいはそれでも何やら難しいこと言って、「無理だ無理だ」って言うかもしれない。でも、それは残りの99%の人がちょっと手を貸してやればいい。なんたって国の威信をかけた大事な問題なんだから、それくらいしたっていいだろう。「次の製品から」とハッキリ言えば、文句を言う人はごく少数だ。

でも、仕掛り中の製品、流通在庫について、同じことをしてくれと言うと、みんな顔色が悪くなる「それはちょっと...」次の言葉が出て来ない。

彼らは、「在庫の山の前で、電卓を箱から出してキートップにシールを貼って、また梱包する、来年までに、この山を全部消化しなきゃならんのです。社員総出で徹夜でやってますが、とても間に合いません」みたいな泣き言を言っている自分を想像しているのですが、その状況がうまくイメージできんのです。

ソフトはリードタイムが滅茶苦茶長い。特に、タイムゾーンのようなOSのレベルの変更だと、基本的には、OSの新バージョンのリードタイムと配布の期間を別に見て、それが完了してからアプリケーションのリードタイムが来る。常に5年から10年の在庫をかかえて商売してるようなもんです。

私が、コンピュータシステムのサマータイム対応を巡る二つの楽観論で通信の問題を中心にとりあげたのは、通信がからむとさらにリードタイムが長くなるからです。つまり、通信というのは、複数の組織がそれぞれのコンピュータで通信することが多くて、その場合、組織同士のマウンティングみたいなことが終わらないと、エンジニアは作業できない。犬が唸りながら睨みあうみたいに、どっちが偉いのか決めてからでないと、通信の仕様を決めるのがどっちか決まらない。

通信の仕様を決めるのは簡単だけど、通信の仕様をどっちが決めるのか決めるのは大変で、私が「リードタイム」と言う時問題にしてるのは通信の仕様を決める時間ではなくて、通信の仕様をどっちが決めるのか決める時間、つまり、マウンティングの時間です。

普通、システム開発はマウンティングが終わってから始まる。そしてマウンティングの結果がひっくり返ることはほとんどない。普通の開発の見積りには、そういう時間は入れない。

でも、サマータイム対応は、マウンティングからやり直すことになって、これは長くなりそうだな、というのが、上記のエントリの話です。

ちょっと違う言い方をすると、コンピュータっていうのは、変動費を固定費に変えるものです。

給料計算をして給与明細を書くのが、社員一人につき30分かかるとします。これを手作業でやってると、このコストは、社員の人数に比例するので変動費です。

コンピュータでやると、プログラムを書くのに、たとえば1000万円かかる。しかし、プログラムを書いてしまえば、社員が1000人でも10万人でもコストはほとんどかからない。固定費です。

もし、そのプログラムに間違いがあって、印刷した給与明細を一枚ずつ修正しなきゃならんとしたら、固定費になったはずのコストが、また変動費に戻る。その時には、社員が1000人と1万人で大きな違いが出る。

そして、今の話の中で固定費と言っているプログラム開発の中にも同じ構造があります。

1000本のプログラムを書くとして、そのプログラムの中に共通の、たとえばタイムゾーン対応があったとして、これを共通の部品にして誰か一人が書けば固定費です。その部品を使うプログラムが1000本あっても10万本あっても費用が変動することはありません。

しかし、その共通の部品が出荷されてから、それを修正しようとすると、1000人のプログラマが、全員、自分のプログラムがその部品の新しいバージョンと動くかテストしなくてはいけない。そして、その1000人が、それぞれ、修正版を客先のコンピュータにインストールしなくてはいけない。これは変動費です。

ソフトの設計、製造、テスト、配布といったサイクルの中には、この「変動費になることを固定費にしてコストを圧縮する」という構造が何重にも入れ子になっています。普通に見えている費用は、圧縮された固定費の費用です。

しかし、サマータイム対応のような想定外のことを後から入れようとすると、いろいろなところで固定費として圧縮されたコストが、変動費としてあらわれてきます。

こういう、ソフトの製品サイクル、その中にあるマウンティングとか変動費を固定費におさえる仕組みというのは、狭義のプログラミングとは別の話で、しかも、業界ごとにかなり事情が違います。

たとえば、私の今の職場では、昨日言われたことを、今日の朝のミーティングで「今日これこれをデプロイ(本番稼動)します」なんていうことが日常茶飯事です。テストは自動化されているし、自動化テストで動作確認できないところは、別のルートがあって別のルートで承認されます。

でも、20年前には、私は、ダムの制御システムを開発していて、これは、ダムのゲートを開きすぎると下流の水位が急激に上がって危険になるという、そういうゲートをコンピュータであけしめするものなので、ありとあらゆる確認を何重にもやります。ここでは、小さな仕様変更でも、基本的に二年後の次のバージョンに回していました。

ただ、どちらも、(狭義の)流通在庫の期間の範囲なら、通常運用で変更できることは同じで、それより短いサイクルで変更を要請されると、かなりアタフタして、他の作業を止めて社員総出でみたいな状況になるのも同じです。

そういうサイクルをひっくりかえすなんてことは、非常事態でなければありえない。

まあ、宇宙からサマータイム星人が攻めてきて、「来年までにサマータイムになってない国は全員滅ぼす」とか言ったならやりますよ。みんな文句も言わずにがんばってやると思う。

そうでない限り、固定費として不可視化されているコストが変動費として爆発して、それを処理するためにマウンティングからやり直す未来しか見えない。

コンピュータシステムのサマータイム対応を巡る二つの楽観論

いきなり来年から日本でサマータイムを導入するという話が出てきて、私には到底実現できない話としか思えなかったが、自民党の少なくとも一部の方々は本気で考えているようだ。そもそも、私にはメリットがどこにあるのかわからないがそれは置いておいて、コンピュータシステム側の対応が非常に困難であるということを、なるべく一般の方にわかるように説明してみたいと思う。

5chとツィッターを眺めて見ると、同業者の人は私と同じ意見が多数であるように見えるが、一部楽観的に見ている方もいるのに驚いた。何事にもいろいろな見方があるので、賛否両論の意見があって議論していけばいいことではあるが、その楽観論を見ていると、全く違う立場の二種類の楽観論がある。何がなんでも自分の立場が正しいと主張する気はないが、この二種類の楽観論が絶対両立しないことは確かで、ここだけはハッキリしておかなければならないと強く言いたい。

最悪のケースは、エンジニアの意見を聞いた所、楽観論Aの人が30%、楽観論Bの人が30%、悲観論の人が40%となった場合だ。AB足して60%だからと言って強行すると、楽観論Aの考えていた方法では、楽観論Bが成立せず、楽観論Bの人の方法だと楽観論Aの人が悲鳴を上げて、結局、どちらの楽観論も実現不可能で悲観論が正しかったということになる。

だから、最終的な結論はエンジニア同士の議論になるなるのかもしれないが、回りの人も、その議論の構図はきちんと理解しておく必要があると思う。

楽観論A: 既存の国際化機能を前提とした楽観論

最初のタイプの楽観論は「サマータイムを実施している国はいくらでもあって、そういう国では普通にコンピュータを使っているではないか!」というものだ。

これは正しい。この手の機能は、インターナショナライザイション(国際化)と言って、画面上の英語のテキストが、日本人が見た時には日本語になるのと同じグループの共通化機能とされている。今では、OSでもプログラミング言語でも、ほとんどが国際化の機能を標準で持っており、その中には、サマータイムを含むタイムゾーン(時差)の処理がある。

だから、日本でのサマータイム導入も、対応するのはOSだけで、ユーザもアプリケーションも何も変更なしで、そのまま対応できるケースもある。

特に、スマートフォン用のアプリなどは、逆に、OSや開発ツールが提供している国際化の枠組みからはずれる方が難しいので、何もしなくてもそのままでサマータイムに対応できるものも多いかもしれない。

ただ、注意すべき点は、この国際化とは、コンピュータ内部では、UTCで時刻の情報を持っていることを前提としていることだ。そして、データを保存したりやりとりしたりする時には、UTCで行う。国ごとのローカルタイムに変換するのは、画面に表示する直前で、それ以外では、時刻が全部UTCになっているということが暗黙の前提となっている。

たとえば、私が 8/7 の 午前 10:00 に5ちゃんねるにコメントを投稿したとする。国際化対応されているプログラムでは、この投稿に、「01:00 UTC」という時刻をつけて保存する。UTCとは時差の基準になる時刻のことで、日本の時間より9時間前になっている。そして、表示する時に、「01:00 UTC」を日本時間(JST)に変換して、「10:00 JST」という投稿時刻を表示する。

もし、5ちゃんねるが国際化対応していて、イギリスの人がこの投稿を見ると、「2:00 BST」という投稿時刻が見えるはずだ。イギリスは現在サマータイム期間中で、その時の日本との時差は8時間になる。サマータイムが終わればそれは「1:00 GMT」になる。

多くの国で使われるプログラムはほとんどそうなっているし、アメリカは国内に複数のタイムゾーンがあるので、アメリカ人専用のプログラムでもそうなっている。

ところが、日本人だけが使うプログラムはほとんどそうなっていない。5ちゃんねるもそうだろうと思ったら、案の定そうだった。

日本のプログラムでは、普通、10:00 に投稿したら、そのまま「10:00」という情報を保存する。そして、専用ブラウザに対して、「10:00」という情報を送信して、専用ブラウザは、それに何の変更もしないで、「10:00」と表示する。

どちらが自然だと思いますか?

10:00 に投稿された情報を「10:00」で保存するのと、10から9を引いて「1:00」で保存して、表示する時に9を足して、「10:00」で表示するという二度手間をかけるのと、どちらが自然だと思いますか?

この「9を引いて」とか「9を足して」という処理が、サマータイム期間中は「11を引いて」と「11を足して」になる。こういう所は、国際化の機能を使うと自動的にやってくれるのだが、日本人しか使わないものは、そもそも足したり引いたりする処理を入れる必要がなくて、自然に10:00で保存して自然に10:00で表示する。

それは、国際的に見て標準的とは言えないし、今後はそれではダメだろうと私も思うが、日本人が日本国内でプログラムを作ると、5chのようなやり方になるのが自然だ。

それに、仕事で作るプログラムでは、エンジニアが必要と思っていても客が必要と思わなければ、そういう機能を入れることは許されない。

楽観論B: システム時刻変更を前提とした楽観論

そして、5ちゃんねるのようにローカルタイムで処理することを当然と思っている人の中にも楽観的に見る人がいる。そういう人は「システム時刻を変更してしまえばよい」と言うのだ。

そういう人も年に二回ある切り替えの日には、いろいろややこしい問題があることは認識しているようだが、そういう時は数時間コンピュータを止めてシステム時刻を変更して起動すればよい、と考えている。

もし、サマータイムの時にシステム時刻を進めれば、私の(サマータイム以前の日本標準時で言う)10:00 の投稿は、12:00 で記録される。そして、それを見る時はそのまま 12:00 で配信され、12:00 で表示される。

つまり、こういう人は、システム時刻=ローカルタイムという前提を持っているので、サマータイム対応というのは、そのシステム時刻を年二回進めたり遅らせたりすることだと思っている。

私には、随分乱暴なやり方に思えるが、単体で動いているコンピュータで信頼性より運用コスト低減の方が重要なシステムならば、そうすることにも一理あるとは思う。

というか、私も以前は、こういう考え方をしていた。

私は、1980年代から2010年頃まで国内のメーカー系SIでエンジニアとして仕事をしてきた。その後、フリーランスになって、国際化の必要な仕事をした。その仕事では、仕様書が英語で書かれていて、最新のWEB技術を使った仕事だったが、技術と英語には困らなかった。しかし、国際化機能の使い方がわからなくて、すごく苦労をした。

だから、今では「そうすることにも一理あるとは思う」とか偉そうに言っているが、ついこの間まで「システム時刻=ローカルタイム」と普通に考えていて、それが一番自然だと思っていた。

1990年頃には、証券に関連するシステムの通信制御システムの開発をしていて、このプロジェクトは「一分落ちたら一億円賠償」とか言われるシステムで品質にはすごく厳しくて、WEB系には技術面でその時のプロジェクトリーダーより上の人はいない、と今でも思っているが、そういう難しいシステムでも確か電文上の時刻はローカルタイムだった。

だから、システム時刻を2時間進めたり遅らせたりと考える人がいて、ローカルタイムで通信しようと考える人がいることも間違いないと思う。

二つの楽観論が出会う時

たとえば、あなたが5ちゃんねるの専用ブラウザの作者だとして、「あなたのアプリではサマータイム導入の時どういう影響がありますか?」と聞かれたら、どう考えるだろうか。

専用ブラウザは、ローカルタイムで送られてきた時刻をローカルタイムのまま表示するだけだから、「こちらで対応することは何もない」と思うかもしれない。つまり、あなたは楽観論Bをもとに「たいしたことない、関係ない」と言う。

しかし、5ちゃんねるのサーバ側は、「サマータイムを導入する以上、これを機会に5ちゃんねるもちゃんと国際化しよう」などと考えて、「来年からUTCで時刻を送ります。専用ブラウザの人は、それをローカルタイムに変換して表示してね」と言うかもしれない。これは「OS標準の国際化機能を使えば、処理は簡単でしょ」という楽観論Aの人だ。

確かに追加する処理は簡単かもしれないが、「何もない」と思ってた所に予定外の作業を入れるのは大変だ。

こういう行き違いがたくさん起こると私は考える。

5ちゃんねるであれば、力関係がハッキリしているからまだいい。

もし、専用ブラウザ側の方が権力を持っていたら、さらに話がややこしくなる。

つまり、「こちらが作業するのが大変だから、サーバ側でサマータイムに対応しろ」と言い出す。従来の日本標準時で10:00に投稿されたものを、「10:00」や「12:00」にして送ってこい、ということだ。

おそらく、ローカルタイムで通信しているシステムでは、こういう問題が必ず起きる。技術的な正論は簡単で通信電文上の時刻はUTCであるべきだ。しかし、それによって作業量が増えてしまうケースもあって、通信のあっち側が負担するかこっち側が負担するかという話だと、これは技術者だけでは決められない。ビジネス的、あるいは政治的な力関係の問題になってしまう。

そういう技術と政治のからんだ綱引きを、納期が絶対に動かせないタイトなスケジュールの中でやることになる。

まとめ

私の懸念することをまとめると「通信電文上の時刻の扱いをどうするか合意が取れないケースには、サマータイム導入への対応方法は簡単には決まらない」ということだ。

つまり、掲示板に10:00に投稿された書き込みをサーバはどう配信すべきか

という選択肢があって、現状すでに 1:00 UTC で統一されているケース以外では、揉めることが避けられないだろうということだ。

「3:00」というのはどういう意味かと言うと、「うちのシステムは、NTPで時刻同期をしてるから、おおもとのタイムサーバの時刻を二時間進めれば問題ない」という意見を見たからだ。

つまり、「NTPが配信している時刻はローカルタイムの事情に動かされることがない固定のUTCである」という前提を理解せずにシステム時刻を変更しようとしているわけで、こういう人は、UTCで通信していてもそのUTCを動かすことを考えるかもしれないと思ったからだ。

そして、この結論によって通信のこっち側とあっち側で対応の工数が変わってくるので、これは簡単に決まらない。

それと、データベース内にローカルタイムが保存されているケースにも、似たような問題が発生して、この場合は、その時刻項目を参照する箇所を洗い出すのが大変だと思う。

そもそも

私は、こういう時に技術者の話が通ることは、日本ではあまりないと思っているのですが、それについては、こちらを参照してください。

スマホのリスクについて教えるなら、大事なのは「パブリック」という概念を理解させること

うーん、この告発の通りなら、この講師の方は、はっきりと間違った知識を子供たちに教えていることになるので、大きな問題だと思います。そこは、すぐに訂正してほしいです。

でも、これは講師の人の個人的な主観というよりは、先生方や保護者の要望を取り入れて数をこなしていくうちに、そういう方向になっていったということだと思います。

個人的には、「子供たちに嘘を教えている」ということに対して、先生方の反応が鈍いということがショックでした。学校の先生というのは初等教育といえども学問を教える人ですから、「知識の正しさ」というものにはもっとこだわりがあってもいいんじゃないかと思います。

それで、「小学校の先生のミッションは何だろう?」ということを考えてしまったのですが、これはおそらく今では「子供たちを守る」ということなんですね。これに必死になりすぎて、他のことを考える余裕がない、保護者も第一にそれを求めてくる。そういうことかなと思いました。

だからこの問題の本質は「先生や親御さんたちは、どうしてインターネットをそれほど怖がり、子供たちにも同じように怖がってほしいと思うのか」ではないでしょうか。今は、インターネットに偏見があって、その偏見を子供たちの押しつけている状態なので、これをなくすことが第一ですが、偏見がなくなって技術を理解したら、インターネットは怖くないものになるのか。

私はこれについて、次のように考えています。

  • インターネットが怖い人は、ネットの中のコミュニティのあり方が現実社会と違うことにとまどっている
  • それに対応できない理由は、ネットの流儀を知らないからではなくて、無意識的に理解、実践している現実社会の流儀を言葉にできず、意識できないから
  • 「インターネットを怖がらない」を目標にするのではなく、両者の(社会構造の)違いを理解することが重要

だから、必要なのは、ネットについての啓蒙ではなくて、「典型的な日本人が社会をどのようにとらえているか」ということを言葉として理解した上で、ネットと対比することだと思います。

こういう観点から、中学生や高校生に対して講演するとしたらこんな感じでどうかな?というものを書いてみました。(やっぱりちょっと難し過ぎるかもしれませんが、本当のターゲットは親御さんと先生方です)




はい、では今からみなさんにスマホについての話をします。

(なんでもいいから、つまらない話を5分ほどする)

さて、ここから本題に入りますが、最初に、ちょっと想像してほしいのですが、みなさんがひとりひとり半透明の繭のようなもので覆われているのをイメージしてください。いいですか、では、その繭をクラス単位で覆うものすごく大きい繭を思い浮べてください。それができたら、今度はもっと大きな、この体育館を全部覆うくらいの、大きな...

(ここで、客席の生徒の一部が騒ぎ出して、先生から注意を受ける)

はい、今の人、ちょっといいかな。名前を教えてくれる?...小宮君ですか。小宮君ね、もう一人の人は... 相田君。はい、ありがとう、小宮君と相田君ね。はい、ありがとうございます。

みなさん、私の話は面白くないですか?たぶん、そうなんですね。今日、これが終わって誰かに「今日の話はどうだった?」と聞かれたら、みなさんは何て答えるでしょうか。

たぶん、一年の他のクラスのみなさんは「二組の小宮が騒いで先生に怒られた」っていうでしょう。二年や三年のみなさんは「今日、一年でうるさい奴がいて、先生に注意された」と言うかもしれません。あるいは、今日来ていらしているおかあさん方は、

「今日、講演の時に騒いで注意された子がいるの、ほら、あの、○○町の小宮さんちの下の子」

「へえ、そうなの、小宮さんとこの?お兄ちゃんはいい子なのににねえ」

とか、噂話をされるかもしれません。

今日は、来賓の方も何人かいらっしゃってます。そういう方は「○○中学校の生徒は行儀が悪いねえ」とおっしゃるかもしれません。

もし、小宮君と相田君が部活の大会で勝ち進んで県大会に出て、そこの開会式で同じようなことをしたら、「○○市の子は」と言われるし、さらに全国大会に進んだら「○○県の子は」です。

私は、帰ってから「最近の中学生はダメだねえ。人の話を聞く態度ができてない」と言うでしょう。

ここで注目してほしいのは、同じ小宮君のことを、それぞれの人が違う呼び方で呼んでいることです。「小宮さんちの下の子」「二組の小宮」「一年の小宮」「○○中学校」「○○市の子」「○○県の子」「最近の中学生」

これが、さきほど、思い浮かべてくださいと言った繭とは、このことです。みなさんは、○○家の一員であり、○○町の住民であり、○○組の生徒であり、○○中学校の生徒である。これが全て見えない繭なんです。

そして、繭の外側に出ていくたびに、そこにいる人たちがみなさんを見る目は変わります。「○○市の子」「○○県の子」と言う人たちは、みなさん個人を見ているのではなく、その繭のようなものの方を見てると言えるかもしれません。

みなさんがここでおとなしくしていないと、それはみなさん個人の恥ではなくて、○○家の恥、二組の恥、○○中学全体の恥になります。つまり、繭の外側にいる人からは、一番外側の繭しか見えません。私は、みなさん全員を「中学生」という繭を通して見ています。だから「最近の中学生は」と言うのです。

みなさんは、今はまだ、先生に注意してもらわないと、なかなかどこに出しても恥ずかしくない○○中学の生徒としてふるまうことは難しいかもしれません。これから、大人になっていくにつれて、先生に言われなくても、その繭の中で「恥ずかしくないふるまい」ができるようになります。

たとえば、みなさんが、将来どこかの会社に入ったとすると、みなさんは「○○会社」の一員であり、その中の「○○部」の一員、「○○課」の一員のように、自分が今いる立場を意識して行動できるようになります。

「恥ずかしくないふるまい」ができるということは、逆に言えば不自由を感じているということです。繭の中にいる人はみんな少しだけ窮屈な思いを感じているでしょう。

みなさんは、これからも見えない繭に何重にも取り巻かれて生きていくでしょう。時にある繭から出て別の繭に入る、それは人生の節目で何度かあると思います。しかし、自分の回りを何重もの繭が取り囲んでいることには違いがありません。

いったいこの話とスマホのどこが関係あるんだ?と思われているかもしれませんね。でも、スマホを扱う時に、一番注意すべきことは実はこの繭のことなんです。

この世界には、繭の外側というものは存在しないのですが、ただ一つだけ、繭の外側に出る方法があります。ただ一つだけある繭の外側、それは、みなさんが持っているスマホの中です。

今日は、ひとつ大事なことを教えます。それは「パブリック」という言葉です。これだけは覚えて帰ってください。

英語の授業では「パブリック」という言葉は「公共の」と教わるでしょう。。でも、インターネットを使っている時には、「パブリック」の意味は「全員に公開」と覚えておいてください。スマホを使っていると、「全員に公開」という言葉を見ることが多いと思います。その時は、「ああ、これは英語のパブリックの意味だな」と思っていいと思います。

そして、この「全員」という言葉は、すべての繭を取り去った状態での「全員」というふうに理解しておいてください。ふつう、「全員」とか「みんな」は、クラスの全員とか友達全員という意味、つまり、ある繭の内側にいる「みんな」を意味していますが、これは「パブリック」でいう「全員に公開」とは違います。日本人全員、いや、外国の人も含めて全ての人間を意味します。

数年前に、飲食店でアルバイトをしている学生さんが、厨房で悪ふざけをしている写真をツィッターに公開して、大きな問題となりました。その人は「全員に公開」を「友達みんなに公開」という意味で受け取っていたのだと思います。

パブリックでない場所で起きた問題は、繭の中で処理されます。

もし、あれがツィッターでなければ、それは彼の仲間うちで話題となり、その中には「ちょっとあれはやりすぎじゃない」と注意する人がいたかもしれません。もし、彼がその忠告を聞きいれずに、もっとやり続ければ、地域の中で噂話となり、先生とか親御さんの耳に入り、そこで彼はひどく怒られて両親に連れられて店長さんにあやまりに行くはめになるでしょう。もし、そこでさらに彼が言うことを聞かなければ、「すごいワルがいる」と彼の名は地元よく知られることになるかもしれません。

つまり、繭の中では、噂は少しづつ広がり、その噂が繭を超えるたびに彼には反省するチャンスがあるのです。そして、彼の悪い評判というペナルティもそれにつれて少しづつ大きくなります。

現実世界では、繭をひとつづつ出るたびに少しづつ危険性が高くなります。RPGで、物語を進めてレベルが上がるたびに、だんだんモンスターが強くなるのと同じです。

しかし、インターネットの中の「パブリック」は、繭を全部取り去った状態での「全員に公開」を意味していて、一晩で日本中から叩かれる騒ぎになるのです。

インターネットは、ある意味ではとんでもないクソゲーです。最初の町を一歩出たとたんに、ラスボス級のとんでもないモンスターがうろついています。途中でやりなおすチャンスがほとんどありません。

でも、パブリックであることは悪いことかと言うと、そうとも言えません。

みなさんは、(近隣の大都市をあげて)○○市に子供だけで遊びに行ったことはありますか?もし、行ったら、きっと、ワクワクドキドキすると思います。ふだんいる繭の外に出る時は、誰でもワクワクドキドキするものです。

上級生と友達になったり、夜遊び歩いたりすることもそうでしょう。本やゲームで物語の中に入りこんで夢中になる時もそうでしょう。みなさんは、いつも繭の中にいて、窮屈な思いをしているので、こういう繭を脱ぎ捨てる行動には、いつもワクワクドキドキするのです。

ワクワクするのは、そこに普段とは違う世界が見えるから、ドキドキするのは、そこには未知の危険があるかもしれないと思うからです。繭をたくさん突き抜けると、ワクワクドキドキ感が強くなります。○○市に行くより東京へ行く方がもっとドキドキするし、外国へ行ったらもっとワクワクします。門限破りも8時より10時の方がワクワクするし、朝まで遊ぶ方がドキドキします。

繭の中では、ワクワクもドキドキも少しづつ強くなっていくので、誰でもちょうどいいドキドキ感がわかります。みなさんはまだ今は、ちょうどいいドキドキ感がわからなくて行きすぎてしまい、先生や親御さんに怒られます。でも、これは、RPGのレベル上げと同じで、怒られながら覚えていけばいいことです。

スマホで遊ぶことは、ドキドキよりワクワクの方が強いかもしれません。実は、スマホで危いことをするのはとても危険なことなのですが、夜遊びや旅行のようなドキドキ感はないと思います。でも、スマホの中に入る時には、全ての繭をいっきに脱ぎすてることなので、本当は、ライオンのいるジャングルに入るくらいドキドキすること、つまり危険と紙一重のことなんです。

これは、悪いことをしなくてもそうです。たとえば、YouTube に動画を投稿したとします。YouTube の動画は「パブリック」なもので、誰でも見ることができて誰でもコメントを書けます。普通、知らない人がコメントを書くことはないですが、もしその動画が面白かったら、たくさんの知らない人が見にきて、その中には思わぬ悪口を書く人もいます。

学校の中で悪口を言われる時には、誰がどういうことを言うかだいたい予想がつくし、そうでなくても悪口を言われた時に、誰がなぜそういうことを言うか、ある程度わかります。でも、インターネットでは、思いもよらぬことで怒り出す人や、ひどい言い方で悪口を言う人がいます。現実世界にもそういう人がいますが、繭の中にいる限り、誰かがそういう人と出会わないように守ってくれているのです。「パブリック」ということは、一切の繭なしに、そういう変な人と直接会うという意味なのです。

だから、本当は、スマホに何か書く時は、ライオンの横を通り抜けるくらいドキドキして、心臓が口から出そうな気持ちになるくらいでちょうどいいのですが、ほとんどの人は、ただの小さな機械に対して、そんなふうに考えることはなかなかできません。

「ワクワク」と「ドキドキ」をつりあわせるのは、難しいことです。

これについては、将棋の藤井聡太さんの活躍が参考になるでしょう。

藤井さんが若いうちから活躍できるのは、もちろん本人に特別な才能があるからですが、それだけではなく将棋というゲームのルールがハッキリしているからです。

将棋には、二歩とか打歩詰めといったルールがありますが、「この手が二歩であるかどうか」ということについて、みんなの顔色を見たり、みんなで話しあったり、先生に意見を聞いたりする必要はありません。将棋をする人なら、誰でも、その手が二歩であるかそうでないかわかります。そして、そのルールの中で勝敗がはっきりと決まります。

YouTube であれば、動画が面白いかどうかだけが問題で、ツィッターであれば、ツィートが面白いかどうかで決まります。小宮君がYouTube に動画を投稿したとして、「おまえ、どこ中の小宮だ?」などと言われることはありません。その動画が面白いかどうかだけが問題で、それは「いいね」や「購読者」の数として、誰にでもわかるランキングになります。

「パブリック」であるということは、誰でも参加できるということなので、その場のルールが誰にでもわかるようになっていないと困ります。そして、インターネットはコンピュータで動くものなので、ルールがコンピュータに組込まれています。半分はみなさんのスマホで動くアプリの中に組み込まれていて、半分はサーバという、スマホが接続するコンピュータに組み込まれています。

藤井さんのように、自分がしたいことがハッキリしている人にとっては、「パブリック」な場のこういう性質は、よいことだと思います。「パブリック」な場は、ライオンの横を通るくらいドキドキしてちょうどいい、と言いましたが、将棋盤の上では、藤井さんがライオンです。どういう猛獣が来ても、将棋盤の上なら彼は誰とでも対等に戦えます。だから、守られる必要はありません。

だから、繭の世界にも「パブリック」の世界にも両方いい面と悪い面があります。

藤井さんがお手本になると私が思うのは、この二つの世界の区別がきちんとできていることです。

将棋は、誰にでもわかるハッキリとしたルールで動いていると言いましたが、プロ棋士の仕事は将棋を指すだけではありません。プロ棋士もひとつの職業であり、日本将棋連盟という団体が主催しているものなので、多くの人がかかわっている繭の世界でもあります。

プロ棋士になるような人は、小学生からその道を進みはじめるので、こういういわば「大人の世界」に入る世話をする人として、師匠という、将棋の世界での親がわりになる人がいます。藤井さんは、将棋盤の上では猛獣のような先輩棋士を遠慮なく負かし続けていますが、盤を離れた時には、この師匠の言うことをきちんと守る、とても良い子です。

いくら天才将棋少年でも、ひとりのプロ棋士として、先輩棋士やスポンサーやファンやマスコミにどういう話をしたらいいのか、そういうことについては、ゆっくりと覚えることしかできません。経験値を積んでひとつづつレベルを上げていくしかないのです。

藤井さんは師匠の言うことをきちんと守り、師匠は藤井さんを繭で守った上で、少しづつ必要な経験ができるようにしています。藤井さんは将棋では師匠よりずっと強いのですが、将棋盤を離れたら師匠に頼らないとやっていけない、自分が将棋に専念するには師匠の言うとおりにした方がいい、そういうことがよくわかっているのだと思います。

みなさんの中には、スマホについて、おとうさんやおかあさんよりよく知っている人もいると思います。また、その中には、自分がしたいことがあって、藤井さんのように大人にまじって腕試しをしたい人もいるかもしれません。そういう人にとっては、ひとつずつレベル上げをしていくようなやり方はまどろっこしく思えるでしょう。

でも「パブリック」な場所の怖さというのは、繭の世界と比べることでしかわからない部分があります。だから、仮に自分が活躍できる場所、ワクワクいっぱいで楽しめる場所を見つけたとしても、その場所が本当に大事だと思うなら、藤井さんのように、大人の言うことをちゃんと聞いた方がいいでしょう。

それと、私が今日「みなさんはたくさんの繭に守られている」と言った時、「回りの友達はそうかもしれないけど、自分は守られてない」と思った人がいるかもしれません。そういう人は、「パブリック」な場所こそがあなたを守る場所になるかもしれません。でも、それは両方が違う性質の場所であることをよくわかって、よく見比べてから決めましょう。

最後にもうひとつ大事なお話があります。

実は、さきほど小宮君と相田君が騒いで怒られたのは、いわゆるヤラセです。私が、先生を通して、二人にお願いしたことです。今日のお話をするために、あそこで騒いで注意される人がいてくれた方が話しやすかったからです。

インターネットには、こういう嘘をつく人がいっぱいいます。「ライオンがうじゃうじゃいるジャングル」と言ったのは、平気で嘘をついて人をダマす人がたくさんいるという意味でもあります。嘘のつきかたにもいろいろありますから、これにも注意してください。

労働問題を伝染病感染防止のように考えてみる

過労死をはじめとする労働問題は、伝染病をどう防ぐかという問題と似たようなところがあると思う。

未知の伝染病が流行ったとしたら、三種類の専門家が必要になる

  • ウィルスの性質をつきとめる生物学者
  • 発症してしまった患者を治療する医者
  • 感染経路をつきとめ、空港などで感染防止策を考える人

この三者は情報交換などで協力すべきことも多々あるが、基本的に違うパラダイムで動いているので、自分の領域外に口を出すのは混乱の元である。

私は労働問題とは、人々が労働というものをどう見るかというミームに、「選択肢はない」という悪いウィルスが感染した伝染病のようなものだと思っている。だから、次のような3種類の専門家が必要だと考えている。

  • A: 人々が労働をどのようにとらえているか研究し、どのようなウィルスが問題を発生させているかつきとめる人
  • B: すでに感染し発症してしまった問題に取り組む人、つまり今起きている労働争議に現場で対応する人
  • C: ウィルスの感染経路をつきとめ、水際での感染防止をする人

この観点から、今話題になっている田端信太郎氏の炎上発言について論じてみたい。

これは、A:あるいはC:の立場の人がB:の問題に口を出している状況だと私は思う。

田端氏が言っているのは「選択肢が無い」というウィルスに感染すると大変だよということだ。この点について、現場の医者は最新のウィルス研究の知識がないと言っている。そう私には見える。

私は、A:やC:の立場での田端さんの発言には同意する。しかしそれが正しいからと言って、集中治療室に乱入して「おまえらのような古い知識で固まった連中には、この病気を治療する資格がない」みたいに言うのは、間違っていると思う。

過労死のような深刻な労働争議を扱うのは、重篤化した感染症の患者を治療するのと同じく、別の専門分野だ。利害が激しく対立していて、法律違反もからむ問題には別の専門的観点が必要だ。ウィルスの正体がわからなくても重症患者にできること、すべきことはたくさんあって、労働問題に関わる弁護士の人たちは、その分野で専門知識を持ち、多くの難しいケースを経験されているのだから、その専門性は尊重すべきだと思う。

特に、個別のケースに立ちいった話をするのであれば、当事者やご遺族の心情に対する共感や配慮は必須である。これは、病室に入る人が消毒をするのと同じような基本中の基本だ。また、臨床の現場にはそれぞれ独自の事情もあるのだから、一括で一律に論じることはできない。

田端さんの最初のツィートは、もともとは、A: と C: の問題意識から出ているように見えるが、途中からB: の問題に立ちいっている。そういう文脈で「過労死は自己責任」というのは間違っていると思う。

個別の悲劇的なケースを念頭に置いて、法的な責任を問うのであれば、直接的な因果関係のみが問題となり、それは労働者を正常な判断ができない所に置いこんだ経営側に100%責任があると私は考える。

ただし、A:問題の根本的原因をつきとめ、C:再発防止の対策を考える時には、共感や感情はむしろ邪魔で、事実を冷静に見なければいけないし、口に苦い言葉も言うべきことは言わなければならない。

こちらの立場から見た時には、労働問題の専門家は経済の実態についての知識が無いまま、他人の専門分野に立ちいることが多いように感じる。というか、今でもマルクスパラダイムから脱しきれてない人が多いように思う。

マルクスパラダイムとは

  • 生産手段は資本家が所有しコントロールしている
  • 従って、資本家と労働者は対等ではなく社会制度は労働者を後押しすべきである
  • 資本家は資本の性質に支配されており、本人の意思と関わりなく邪悪な労働者の敵となる。だから労働者はこれを敵とみなし団結して戦うべきである

これは、生産手段、つまり、経済的な価値の源泉が工場や倉庫や店舗などの有形物である時には正しい。しかし、今の価値の源泉は、人の頭の中にあるアイディア、知識などである。

  • 生産手段は(人の頭の中にあるので)労働者が所有しコントロールしている
  • 社会制度は、価値創造の源泉である生産手段の多様化を後押しすべきである
  • 労働者は労働の多様性を理解し、それを互いに配慮すべきである

という方向に経済や社会の主流が急速に変化している。

田端氏は「ブランド人」なる新著を炎上ついでに宣伝しているようだが、ブランドも主要な生産手段の一つで、これも資本家から労働者に移動しつつある。

制度設計として、法律や政治の問題を論じるなら、田端氏のような、こういう分野で実績がある専門家に意見を聞くべきだと思う。

もちろん、経済の全てがこう変わったわけではなく、古いパラダイムが支配する職場で働いている人もたくさんいるので、全部こちらに合わせればいいとは言えないが、成長力があって今後雇用を支える分野はこうなっている。だから、社会制度はまず新しい経済に合わせて基本的な制度を設計し、それに合わない部分を例外として調整すべきである。製造業が基幹産業であった時代には、制度は製造業に合わせて設計され、他の産業は多少無理をしてそれに合わせて運用していた。それと同じことだ。

しかし、その障害となるのが、労働に対する道徳観念であって「選択肢はない」という信念である。あるいは「あいつらには選択肢があるが自分にはない」

この信念は、信じていればその通りになるので脱することは難しい。つまり、「選択肢はない」と信じていれば、自分に選択肢を増やすための工夫や努力、情報収集ということに頭が行かないので、どうしても知らず知らずのうちに不利な立場に追いやられてしまい、実際に選択肢がない状況が実現してしまい、だからやっぱり「選択肢はない」のが正しいと思えてしまう。そういう現実を目にすることになる。

できれば会社はやめたくないし、やめたりバッくれてみんなに迷惑がかかるとしたら自分が悪い、と考える人が多く、その意識はなかなか変わらない。

そして、労働問題を政治的な文脈で扱う人にとっては、「労働者は一律に一致団結して戦うべきである」という考え方は、政治的なパワーに直結しているので捨てるのが難しい。労働の現場が多様化していて、田端氏が体現しているように、資本家(経営者)と労働者の関係もさまざまであるという現実を受けいれることは、政治的に見るとダメージが大きいので、意識的か無意識的かはわからないが、「資本家は今も昔も強力で邪悪な敵であって、気を許してはいけない」というポジショントークを繰り返している。

マルクスは、経営者が人格的に悪人と言ったのではなく、資本というものにそういう性質があって、それが資本家や経営者を動かすと言ったのであって、資本が人間にさせようとしていることが変わったら、資本家はそっちに支配されると考えるのが、マルクスの正しい理解だと私は思う。

マルクスの真意から離れたポジショントークが「選択肢がない」という信念と結びついていることが、労働問題解決の一番のネックとなっている。これはウィルスのようなもので、感染しているけど問題を発症してない人が動き回って被害を広める。

それで、C:の感染防止策という観点で見た場合、まず「選択肢はない」というウィルスに感染していない人に対して感染を防止するというが一番重要であり、この点では田端氏のやっていることは意義のある有用な社会貢献だと思うし、若い人には多いに参考にしてほしいと思う。

これについては、いじめ問題を研究している内藤朝雄氏も、「学校の選択肢がないことがいじめの根本的原因で、バイチャー制度などで選択肢を増やすべきだ」という趣旨のことを言っていたので、選択肢を増やすことが労働問題についても一番重要なポイントだと思う。

「選択肢がある」という言葉も自己実現性があって、そう信じている人は常に選択肢を意識して、自分の選択肢を増やすようキャリアデザインをするので、やっぱり「選択肢がある」が正しいと思うようになる。そういう現実を多く目にするようになる。こちらも感染性があるウィルスかもしれないが、こっちに感染すれば、もう一方には感染しないので、ワクチンのように感染防止策としては効果がある。

選択肢があるかないかは、実証的に論じることが難しい問題だと思うが、処方箋としては「選択肢はある」とアピールしてそういう状況にある人が身をさらすことはとても有効だと私は思う。

アメフト問題の中に無形のコモンズを巡る葛藤を見る

日大の危険タックル問題は、ネット中立性の問題と似た構図の、コモンズを巡る立場の違いからくる対立が深層にあるような気がする

内田監督と宮川選手の意識の乖離と呼ばれているものは、ルールというものを無形のコモンズととらえるか、当事者間のネゴシエーションととらえるかの違いだと思う。あるいは、コモンズと自分の利害をゼロサムゲームと見るか、自分が依拠しているコモンズを維持、発展させていくことにこそ自分の利益の基盤があると考えるかの違い。

そもそも、アメリカンフットボールのようなコンタクトスポーツで思いきりぶつかれるのは、相手に対して「ここまではやるかもしれないがこれ以上はやらないだろう」という信頼があるからだ。それは単なるルールの条文ではなくて、ダイナミックに変化する試合の中のさまざまなシチュエーションを通して、「こういう場面ではこれくらいはOKだけどこれはありえない」という暗黙の合意があるということだ。

その合意は、過去の多くのプレイヤー、審判、大会の運営者などの関係者が長い時間をかけて、紆余曲折を通って築きあげたものだ。キレイごとではすまない部分も含めて、ゆるやかな合意があるから、このゲームに多くの人が魅力を感じて引き寄せられるのだろう。

空気のようにあってあたりまえでふだんは意識しないけど、なくなってみると、「これがないと我々みんな生きていけないね」というものをコモンズという。もともとは水源や牧草地などの有形の共有資産を指す言葉だけど、今は、むしろ無形のインフラを指すことが多い。

アメリカンフットボールで激しいタックルがどこまで許されるのか、という合意は、まさにコモンズだと思う。これが厳しすぎればゲームの面白さが半減するし、ゆるすぎれば選手が危険にさらされる。これの湯加減についてみんなが合意してはじめて、フットボールが競技として成立する。そして、おそらく、それはいったんできたら固定してそのまま使えるものではなくて、競技の技術や戦術の発展に従って、細かく微調整され続けなくてはいけない。マスコミやファンもそれが共有できるように、努力しなくてはならない。

「コモンズのおかげでみんな生きているのだから、当然、誰もがコモンズの維持に貢献しなくてはいけない」という意識をあたりまえに持てる人と、全くそれが見えない人がいる。

宮川選手は、前者のタイプで、「自分はアメリカンフットボールのコモンズを傷つけた」と考えている。だから、「資格がない」と自分を責めている。

内田監督は、後者のコモンズが見えない人で、ルールというものは、当事者間の合意でしかないから、たとえ問題となっても、関西学院と日大との間で話をつければ良いという考え方だったのだろう。

そして、関東学生アメリカンフットボール連盟が素早く厳しい処分を決めたのも、この問題をコモンズの危機ととらえているからだろう。ここでコモンズを守らないと、今後、選手も監督も、ゲームの中で自分たちは相手と何を競うのかについて、疑心暗鬼になっていく。それは、観客などの周辺にいる第三者にも伝わり、アメリカンフットボールという競技そのものの魅力が失なわれてしまうのではないか、そういう危機感があったように感じる。

コモンズが見えない人は、コモンズを意識する人のことを「幼稚で大人になってない」と見ることが多いような気がする。そういう意味で、内田監督が宮川選手に厳しいプレッシャーを与えて追いこんだことが「教育的な目的のため」というのは、私は嘘ではないと思う。内田監督にとっては、ルールというものを自分と同じように見る人間になることが成長の証しなのだ。

ネゴシエーションによって自分に有利な方向にルールを動かす」ということは、立派な戦術であるだけでなく、そういう視点を持てることが「大人の条件」と考えていたのではないだろうか。大人というのは自分の属するコミュニティの利害を第一に考えるべきで、その利害の一つとして、コモンズを操作して自分の有利な方向に持っていく技術を、宮川選手に身につけさせようとした。だから、逆に言えば、それを極端にあからさまに行なうことは期待していなかった。

しかし、宮川選手は、コモンズの利害=全フットボール関係者の利害という見方から出ようとしなかったので、内田監督は、彼のこの意識を変えようとして、「追い込み」をした。これが宮川選手を、全く出口の見えない混乱に追いこみ、過激な反則タックルとなってしまったような気がする。彼にとっては、コモンズと自分のチームのゼロサムゲームという観点が想像を超えていたので、両者の利害をきめこまかく調整をする、つまり、もう少しわかりにくい反則をしてコモンズの被害を最小限にしつつ自分の利益を最大化するという発想は持てなかったからではないだろうか。

問題の試合後、内田監督は「宮川はひと皮むけた」と上機嫌だったが、宮川選手が「コモンズの利害=全フットボール関係者の利害」という呪縛から脱することができたと思っていたのだろう。

内田監督は、釈明の会見で、4年生と3年生の意識の違いを強調していた。これを場違いな意味不明の脱線と感じた人が多かったようだが、私はこれこそが問題の核心であるように感じる。コモンズが平等にみんなのものであるという「幻想」に執着し、コモンズの隙間をかいくぐり個別のネゴシエーションに引きずり落とすことができる「大人」になろうとしない世代が生まれつつあるのを感じて、その代表として宮川選手を「脱皮」させようとした。

これは「老害」と呼ばれる問題に多く見られる象徴的な構図だと私には思える。

日本が急速に没落しているのは、日本がネゴシエーションの技術を洗練させることで社会のさまざまなシステムを回してきたからだろう。相手や文脈によって言葉を微妙に変えることにネゴシエーションの本質がある。それができる人が「大人」と呼ばれていた。

しかし、今は全ての言葉は潜在的にパブリックであって、いつ録音されどこで公開されるかわからない。全ての個人と組織は常にコモンズに対して一貫した言葉を持てるようにしないといけない。それができて、コモンズの維持発展に貢献できる人間こそが、「大人」と呼ばれるべきだろう。

技術を理解することではなく、技術によって強制的に実体化しつつあるパブリックなものやコモンズを意識した言動が求められているのだ。

ネット中立性の問題も同じだ。インターネットが今のようなものであると多くの人が合意できている状態はコモンズである。この信頼があるから、多くの人が自発的にこれに献身してこれが発展しているのだ。

ネット中立性を無くすことは、この信頼を損なうことによって、特定の誰かが利益を得るということだ。ネットは見る人によって違うものが見えたり見えなかったりする世界になる。単なる通信速度の調整だと言うが、動画中心のユーザにとっては、遅いとはつながってないに等しい。これが進めば、インターネットが「インター」でなくなり、不公正で非効率なバラバラに分断された個別のプライベートな「ネット」になってしまう。

コモンズを損なうことで一時的な利益を得ても、大局的には自分も損しているという現実が見えない人の方が幼稚だと私は思う。