「ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である」 -- 10代の子供に読ませたい本
何と言ってもこのタイトルが素晴しいと感じて、一刻も早く読みたいと思った。ありがたいことに、私はこの本の材料となったブロガーへのアンケートの回答者に選んでいただいていたので、すぐに、著者のいしたにさんから「献本をさしあげますので、送付先をメールしてください」というお知らせが来た。
しかし、それが、どういうわけか、そのメールを送るのが億劫で仕方なかった。翌日回し、翌々日回しにしているうちに出しそびれてしまった。
そのうちにいくつかレビューが出はじめたので、本屋に行って買おうとしたら、発売は少し先になると言われた。「しまった!献本を受け取れば発売前に早く読めたのに!」と思い、メールで連絡の遅れをおわびしてやっぱり献本で読ませてもらおうと思った。
しかし、これがまた、どういうわけか、またもや、そのメールを送るのが億劫で仕方なかった。翌日回し、翌々日回しにしているうちに、またもや出しそびれてしまった。
ただ、住所を書いてメールを出すだけのことなのに、どうしても身体が動かないのだ。
意味がわからないまま、あきらめて発売を待って本屋で買って読んだ。
読んで謎が解けた。読んでいるうちに「これは自分の子供にプレゼントしたい」と思ったのだ。プレゼントにするなら、もらったものより自腹で買ったものの方が、重みがあってちょっといい。つじつまが合ったし、献本で読まなくて良かったと思った。
私は、自分の子供にコンピュータやネットのことはあまり教えない。教えようと思えば教えられると思うのだが、あまり積極的には教えない。良い本を知っていたり持っていたりして、聞かれたら「これがいいよ」と言うことはあるが、聞かれなければ、こちらから読ませることはない。
理由は、一般的なものと個人的なものと二つある。
一般的なものとしては、ネットでは「今現在のまとめ」が役に立つ期間は限られているからだ。
たとえば、数年前の「ネットのまとめ」があったとしたら、そこにはiPhoneやiPadやtwitterのことはほとんど書いてないだろう。今の時点では、有用性は限られる。本人が動き出したタイミングなら、その時点でのよいまとめがあれば使えるけど、あらかじめ押し売りしておくほどのものではない。
個人的なもう一つの理由としては、やはり血は争えないもので、どうやら私の二人の子供たちは、どちらも親に似て、ある種の偏りを糧にして食っていくしかないように思えるからだ。バランスの良い食事を与えて、偏食を直すことが本人にとって良いのか非常に微妙だ。それが必要な場面もあるだろうが、これも、本人が希望したタイミングでないと、逆効果になりそうな気がする。
そういうわけで、どんな良書を目にしても、ブログには書くけど子供たちには教えない。
ところが、この「ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である」という本は違う。これは、ぜひ子供たちにプレゼントして読ませたいと思った。
それくらい、スパンの長い、ネットの本質的なことが書いてある。ネットで目立つのは、どこか変な人が多いのは何故かが書いてある。変に見えない人でも実は結構変なんだということが書いてある。その「変」な部分を、体感を失わずに掘り下げ、時代を超えた教訓としてまとめあげている。
やっぱりネットって、変だと思う。みんなもそう思うでしょ?従来の常識がひっくりかえっているのは過渡期の一時的なもので、いずれ普通に戻ると思っているが、なかなか「変」が直る気配がない。というより永続化しそうな気配が濃厚だ。その「変」を掘り下げずに何がネット論なのか。しかし、とは言っても「変」を変のまま放置しておくのでは説明にならないので、書いている意味がない。
この本は、そのネットの「変」にまつわる公案を、正面突破している。内容は読んでのお楽しみということで、ヒントだけ書いておくと「ログ」という所に着目したのが鍵だ。これは卓見だ。言われるまで全く気がつかなった。あと、「続ける」でなく「やめない」という言い方を意図的に選んでいること。
唯一残念だったことは、自分としては、これは子供たちが十代のうちに読ませたかった。うちの場合、ちょっと間に合わなかったんですね。
十代で理解できるものかはわからないが、すぐに理解しないで何年も抱えたままでいた方がいい言葉というものはある。抱えていれば、ある日突然、腑に落ちる日が来る。昔の漢文というのはそういうふうに読まれてきて、実際、それが人生の切所でアハ体験となりロングスパンではとても実用的なのだが、この本には、そういう種類のことが書いてある。
で、それと同時に、一つの教訓を得たのだけど、身体の言うことは、意味がわからなくても素直に聞いた方がいいということだ。
今の時点から振り返れば、「この本はプレゼントしたくなるから自腹で買った方がいいと思うよ」というメッセージになるのだが、身体というのは、超能力者ではないので、そういう表現はできない。ただ「だりー、めんどくせー」と言うのみで、頭は「何でただ一通の事務的メールがそれほど面倒くさい?」と不思議がるのみだ。不思議だし謎は解けないし不義理で迷惑をかけて申し訳ないけど、「こういう時はあまり無理をしない方がいい」と思うくらいの知恵はあった。
自腹で払った方がいい買い物も、たまにはある。それをはずさなかったのは、自分としては上出来だ。
ものごとが「わかる」ということは、自分の中の厄介な特定部位を切断するということだ。切断した方が楽になることもあるが、わからないまま放置して時期を待った方がいいこともある。あの「だりー」をすぐにわかってしまったら、それはたぶん違う意味として決着してしまい、その場合、この本を私は献本で読んで、もっと違う読み方をしていただろう。
「わかる」タイミングの最適化というテーマは、この本にも通じているような気がするが、どうも、そういうメッセージが、二重三重のフラクタルに、私の回りを取り巻いていたようだ。
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