「政治的フィクション」をフローにする国とストックにする国

劉傑氏をゲストに向かえた、マル激第185回 「中国人に日本人の歴史観はどう映っているのか」を見て、次のようなことを考えた。

私の理解では、劉傑氏と宮台氏は、次のようなこと言っていた。

中国の人の反日意識を理解する鍵は、「日中平和友好条約で両国は何を確認したのか」ということだ。それは、東京裁判=サンフランシスコ平和条約で確認された、「A級戦犯に罪を負わせ、天皇と日本国民を免罪する」という、ひとつのストーリーである。「東京裁判が真実である」ということではなく、東京裁判を起点として、これから日中両国の関係を再構築するという約束である。従って、首相の靖国参拝はここでかわされた約束に対する信義違反であり、中国の世論が怒っているのは、この信義違反一点のみである。

宮台氏は、東京裁判が不公正なものであることを認めていたが、それを理由に、日中の合意を破ることは好ましくないと考えているようだ。

このような理解が実際の中国の人の世論を反映しているかどうかはわからないし、それに従うことが正しいかもどうかもわからないが、この指摘で、中国の人の考え方が、すごくよくわかる気がした。

例えば、隋を倒して唐ができた時に、ある国が、隋に受けた被害を唐に請求したとする。この場合、唐は隋との連続性を否定して、それを拒否する。同時に、「隋を否定する」所にその国と唐とのつながりを見出し、それを起点として、両国の関係を作ろうとする。そのようなタテマエを作り、本音としては相応の賠償額を提供しようとする。

もちろん、実際の歴史の中で名実ともに中華帝国であった唐が、そんなことをする可能性はないが、中国の人の歴史感覚から言って、外国との友好という場合に、このような「大義名分の共有」というのが重要であるということだ。

そして、この場合、隋を徹底的、形式的教条的に否定することがポイントではないかと思う。それは、隋に関する歴史的事実に対する言明でなく、唐とその国との友好関係の表現となるではないだろうか。

だから、戦前の日本を徹底的に残虐に描く歴史教育は、現代の日本を批判する為なのではなく、むしろ逆に、そのような批判を共有することで、未来につながる新しい日中関係を構築する意思の表明でもある、と言えるのかもしれない。

さらに、その歴史観は、中国が一方的に要請したものではなく、日中国交正常化にあたり、日本が同意したことなのだ。だから、中国は、合意されたこの歴史観に添って、A級戦犯(に代表される戦前の軍部)を悪く言うかわりに、現代の日本を悪く言うことは許さない。そのような歴史観を自国の国民が持つことに責任を持つ。そして、それと同じことを日本の政府に期待する。この「約束」を基盤として、両国の関係を発展させていこうと思っている。

極端に言えば、これがウソと方便であることをお互いに認識したまま、(パンピーのガス抜きは多少は放任するとしても)少なくとも政府はこのタテマエに添って、仲良くしていきましょうという約束をした。

中国の歴史上、どの王朝も、このような「大義名分」というタテマエで、どのように自分の正統性をアピールするかに腐心してきたわけで、このような政治的フィクションは、中国における政治の中核とも言える。

だから、日本の首相がA級戦犯の合祀された靖国に参拝することは、「信義」と「大義名分」という、中国的価値観で一番重要な所をないがしろにする行為であり、それを中国の人が許容することは、絶対にできないという話である。

もし、どうしてもするならば、新たに、別の「大義名分」を日本と中国との間で合意しないといけない。それをしないで、説明なしに靖国参拝をすることは、中国的政治意識の元では、戦線布告に近い裏切り行為にうつるのかもしれない。

どこの国にも、このような「大義名分」、政治的フィクションはあるが、日本では、「大義名分」はフローであり、毎年毎年自動的にクリアされてしまう。だから、世論はその時その時のテーマでいっせいに騒ぐが、翌年になると忘れてしまう。中国では、そういう政治的フィクションが、ストックとして扱われていて、企業の財産目録のように、異動の記録無しに無くなってしまうことはあり得ない。

BS/PLがなくて、おこづかい帳のような出納簿しかない企業は信頼できないと思うのだが、日本は中国からそのように見えているのだろうか?

(追記)

中曽根元総理はこの線に近い主張をしているという指摘が、roi_dantonさんから。