「押収」の再生産

京都府警の言い分


終わったことだから詳しくは話せないが、マスコミはウソばかり書いている。

には、ハァ?という感じであきれてしまいますが、単なる正当化ではなくて、歪んだ正義感とか怨念のようなものを感じます。次のような声にならない声が聞こえてくるような気がしました。


これは私利私欲でなくて公(おおやけ)の為にやっていることだ。
あんたたちやマスコミは認めないかもしれないが、我々なりの秩序の為には必要なことだ。
我々の間違っている所と正しい所を区別して、前者を批判するなら受け入れようもあるが、
マスコミはそういう区別なしに我々の言い分を全面的に拒否する。
我々の一切を否定しようとして、口を開けばそれを聞く前に攻撃してくる。
だから、我々は口を閉ざすことを選んだのだ。

ワイロではなくて捜査費の使いこみ→冠婚葬祭のようなことを思いうかべると、これは理解できないこともない。罪は罪でも、完全に私的な利益の為に使うのと、組織を維持する為の規範がたまたま法と一致してなかったというのは違います。両方とも批判されるべきですが、批判する言葉は違ってなくちゃおかしい。マスコミはそこを理解しようとはしないし、私だって理解したくはありません。

ただ、そこで言葉を奪われたという思いがあるとしたら、その怒りは大きいものになるだろうなと想像することはできます。私も、自分の口をふさがれることの恐怖と怒りは理解できます。まさに、今それをされようとしているんだから。

ただ、言葉を奪われた人たちが別の言葉を押収するというのは不幸なことだと思う。

それに対して、我々がマスコミを動かしてまた別の言葉を塞ぐのも不幸なことで、それだけで終わったら「押収」の拡大再生産だ。彼らはきっと別の形で復讐してくるでしょう。

私はできることなら、警官の言い分をじっくり聞いてみたいと思います。それもフィルターを通さずに、直接、生の声として本音を聞いてみたい。そういう場合にはマスコミは信頼できない。法的な問題もあるからすぐには無理かもしれないが、警官の書くブログや掲示板を読んでみたいと思います。

一方で、Googleを動かしマスコミを動かし世論を動かし、不当なことには徹底的に抗議してとことん戦う。当事者はとことん戦い無慈悲に敵を叩きつぶせばいい。ただ野次馬には別の目も必要ではないだろうか。私は、自分が当事者であり同時に野次馬だと思っている。

ペーパーメディアには、そういう矛盾する二つの気持ちを両立させるだけのスペースがないけど、ネットにはいくらでもスペースがあるし、私のこころの中にもひょっとしたらそれだけの大きさはあると思う。

テロの拡大再生産について知る為に、何も中東まで行く必要はなくてここにも全く同じものがあるわけです。「あいつらの言うことは全く筋が通ってない。デタラメだ」と言い、全く同じことを言われ、互いに相手の言葉を聞こうとしないで直接攻撃をするしかない人たちがいるのだから。そういう自分がここにいるのだから。