敬老という習慣の合理性と限界

これまで常に老人は少数派であった。だから、老人をプッシュするシステムがないと老人の意見は少数派として抹殺される。平均的に見れば、老人は経験から得た知恵を持っているものと期待される。その知恵が無視されてしまうことは、全体にとってマイナスである。だから、それを生かすようなシステムがあった方が合理的なのだ。

特に江戸時代や高度成長期のように、社会が連続的が発展する場合はこのことが顕著になる。老人がこれまで蓄積した経験、人脈、情報がそのまま通用する。その量の差が意思決定における優劣につながることが多かったはずだ。二代目の若社長が独断で突っ走るより、年寄りの顧問が取りまいていろいろ小言を言うような企業の方が、合理的であり競争力もあったに違いない。

老人が少数者であり環境が急激に変化しない限り、老人を敬うという習慣を持つ共同体の方がより適応的である。それが生き残りその習慣が固着して倫理となったのではないか。だから、それを非合理な迷信として非難するのはあたってない。一定の前提条件が満たされる限り、老人を敬いその知恵を尊重することが、社会全体にとって合理的なことだったのだ。

ただし、これを倫理として習慣づけたことがよくない。状況が変わっても修正がきかないからだ。社会が不連続に変化し、世代間の人口バランスが老人に傾いている今、意図的に若者の発言力を強化していかないと社会がおかしな方向に行ってしまう。若者を敬うという倫理に切りかえることが必要なのではないだろうか。

実際に、現代の若者は生き残っているだけで尊敬に値するのではないかと思うことがある。