○○ちゃんのお母さん
のび太のママのことは誰でも知っている。しかし、彼女の野火玉子という名前を知っている人はめったにいない。彼女は大半の人から「のび太のママ」として記憶されている。
こういう人間のあり方はフィクションの中だけかと思ったら、お互いのことを「○○ちゃんのお母さん」と呼びあう人たちは実在する。PTAのクラス会で俺はこの目で目撃した。こういう会話をかわしている人たちがいた。
- ○○ちゃんのお母さんは次の懇談会出るの?
- それが出られないのよ、××くんのお母さんは?
この「○○ちゃんのお母さん」とか「××くんのお母さん」というのは、会話を交している相手を指している。
それどころか、実際に俺もそう呼ばれてしまった。ほとんどの場合に俺は「フグ田さん(仮)」と呼ばれていて、それ以外ではせいぜい「マスオ」か「マスオくん」としか呼ばれたことがない。それが突然「タラちゃんのお父さん」と呼びかけられたのだが、一瞬誰のことだかわからなくて混乱してしまった。
実際にこのように呼びあう人がどれくらいいるのか知らないが、母親どうしの関係が荻野さんと磯野さんの関係ではなくて、「千尋ちゃんのお母さん」と「ワカメちゃんのお母さん」のつきあいになるのは一般的であるようだ。千尋ちゃんとワカメちゃんが仲がいいと、親同士に共通の話題がなくても一緒にいなくてはならない。いくら磯野さんが変わった人でも千尋ちゃんが「ワカメちゃんとあそびたい」と言った時に、それを断念させることは難しい。「なんでワカメちゃんとあそんじゃいけないの?」と聞かれて答えに窮することになる。
一般に深いつきあいはリスクがあって、得るものも大きいが、いろいろな心情や情報を開示していくと、衝突する危険も大きい。自分単独のつきあいだとそのリスクをしょって本音で仲良くなることも可能だが、子供が誰と仲良くなるのかわからないので、誰ともほどほどにしておかなくてはならない。
結論として、関係のある母親全員とつかず離れずを強制されることになる。どうも、その窮屈さは人によっては相当なストレスになるらしい。
さて問題です。
- このような人間関係は日本以外にもあるのか?
- このような人間関係は過去の日本にもあったのか?
- サラリーマンの人間関係における気遣いとこの問題とは質的な違いがあるかないか?
これをとっかかりにして、日本人論をやったらどうだろう。お母さん方に役に立つ話は出てきそうにないが、理論化して整理することでお父さんたちにお母さん方の大変さを理解させる助けにはなると思う。