前門のMOD、後門のモナー

ARTIFACT −人工事実− MODカルチャーは日本のゲーム業界に影響を与えるか?によると、知らないうちに日本のゲーム産業が大変なことになっているようです。

BizTechゲーム業界,日米逆転の危機という記事。


「米国ではゲームの開発技術情報がオープン。一方,日本のゲームメーカーは開発情報を公開したがらない。また,日本のゲーム業界は米国と比べて,学術界との交流が乏しい。ここらへんで差が急速に縮まりつつある」

これと同じ問題を「ナムコ開発者による特別講義」 という記事では


そもそも今のゲーム制作を映画に例えてみると,それは「各社ごと(もしくはゲームごと)にカメラから組み立てている」ような物といえるのではないだろうか?

と表現している。

アメリカでは、MODと言って、ユーザがマップやキャラをエディットし、それをネットで交換して遊ぶタイプのゲームがはやっているそうだ。これが日本には全然無いそうだが、オープンでユーザコミュニティ主導の文化は、日本の企業の閉鎖主義、内製主義と相容れないものがあるのだろう。

俺はゲームについては詳しくないし、片岡義男さんもおそらくそうだろうが、日本語で生きるとはの次の記述は、このようなゲーム業界にも妙にあてはまる気がする。


会社に勤めて過ごす人生は、自分という人が常に収まっている専用の枠のなかに、社員という身分や位置づけの枠が、完全な同心円として重なりつつ、おたがいを特化し続けてやまない日々だ。

会社が社員の語彙や技術を特化しようとするから、共通の基盤技術が成り立たなくなるのである。なんで歴史の浅いゲーム業界でこんなことが起こるのだ?!と思うが、日本の会社っていうものは外圧が無いとすぐこういう方向に突っ走る。コンシューマーで一時的に世界を支配したもんで、本性が出ちゃったんだろうか。

もしそうなら、この問題の根は深い。ただ単にライブラリを公開したり共同開発すればいいということではなく、議論するための言葉から作っていかないとダメだ。つまり、技術や戦略のミスでなく文化の病として取り組まないといけない。

一方で、こわい!毒舌BBS ちょっとまたーりいこうよ編(wにあるように、ゲーム以外のライバルが多いし大変ですな。