情報時代の社会秩序 〜ポストモダン論の立場から〜


ポストモダン社会または環境管理型社会というのは、さまざまな人々をいろいろな価値観のもとに放置しておきながら、身体もしくは環境を直接管理することで、何とか秩序維持をするというモデルです。そうすると、ある種の階層の人たちはその中でまとまってしまうわけです。つまり、統合するけれども、分割してしまうという矛盾した特徴も持っているというのが、現代の監視社会のリスクといえるわけです。

フィルタリングによって分割される世界で言ってることに近いみたいだ。個別の問題を解くことと、それが突っ走った結果を考えることは違うということか。

例えばある掲示板で「荒らしが邪魔だ」と思ったとする。管理人に文句を言えば、管理人は「荒らし」を見ないですます方法をいろいろ考える。最初の時点では個別的で技術的な問題だ。

誰かがいい方法を考えついたとして、そのノウハウがよくできていれば、ライブラリ化するかパッケージ化する。それが他のBBSスクリプトやメーラやいろんなものに組みこまれる。誰だって荒らしを見たくないから、便利のためにそれを望む。望まれたものは自然と広まる。ある程度以上広まると、問題がグローバルで社会的なものになる。

そうなって初めて隣の人の画面と自分の画面が全く違うことに気がつく。隣の人と話をしてもなかなかかみあわないことに気がつく。誰と話をしても誰とも話が通じなくなっている。その時になって「こりゃヤバイ」と思っても止める手段はない。「荒らしカット」機能がないBBSやメーラは誰も見むきもしないからだ。「荒らしカット」機能の設定を変えて荒らしだけでなくいろいろなものをカットして、誰もが個別の世界に住むようになっている。

さて、ここで誰が悪いのか考える。プログラマはユーザの望んだ機能を作っただけ。ユーザは使いやすいBBSやメーラを選んだだけ。誰も悪くなくて誰の意思も曲げてないのに、誰も望んでない社会ができあがる。誰が「先見の迷惑」の犯人なのか?

RFIDにもほぼ同じ構造の問題がある。技術者はローカルな問題を解くのが社会的使命だから、隠しごとをしないことくらいは要求できるけど、それ以上のことは期待できない。むしろ優秀でがんばる人ほど、この流れを加速する。

難しい問題だけど、日本全体、世界全体が関係することだから、きっと誰かエライ人が考えてくれているだろう、とみんな漠然と思ってしまうのだが、「誰も考えてないよ」と東浩紀は言うのであった。