自覚無しにOSを使うことの危険性

「何のOSを使ってますか?」と聞いて「OS? 私はそんなものは使ってません」答えたとする。ほとんどの場合、この人はOSを使ってないわけではなく、Windowsを使っている。一般ユーザなら許せるが、システム管理者がこんなことを言ってたら相当ヤバイ。

「何の宗教信じてますか?」と聞かれたら「宗教?私はそんなもの信じてません」とたいていの日本人が答えるだろうが、本当に無宗教と言える人は、機械語BIOSを直接叩いて動くワープロやブラウザが書けちゃう人と同じくらいしかいない。つまり、まずそんな奴はいない。やはり一般人が無邪気に無宗教と言うのはしょうがないが、大半の人間がそう考えてるとしたらちょっとまずいと思う。

Windowsが無条件でまずいと言っているわけではない。無自覚にWindowsを使うのが問題なのだ。Windowsにもいいことがいっぱいあるが、当然ながら欠点もある。致命的な欠陥に近いものもある。Windowsを使い続けるならば、その問題点を意識してそれなりにきちんと手当てしながら使う必要がある。そのためには、当然ながらOSというもの意識して、自分がWindowsというOSを使っていることを知らなくてはならない。

ところが大半のWindowsユーザにはこれができない。「Linuxというものを見せてみろ」と言われて画面を見せてやると、シェルのことをLinuxだと思って「使いづらい」と言ったり、KDEのことをLinuxだと思って「たいした違いがない」と言ったりする。間違っているというより勘違いしている。この誤解をとくのはなかなかたいへんだ。

日本では坊主が葬式屋だったり教会が結婚式場だったりするが、これが似たような問題を引きおこす。OSのことをアプリだと思って、「具合が悪けりゃとっかえちまえ」とか「適当にあれこれ見つくろって使え」などと無茶を言う。宗教と言うのは簡単に取りかえたり混ぜたりできるものではない。

日本人の精神世界はWindows3.1のように階層分けができてなくて、いろんなレベルがごちゃまぜになっている。普通は法律の上に倫理があって、法律は倫理に依存し倫理の管理下で動作しているものだが、Windowsではアプリが直接ハードを叩いたりする。はこういうのは平均的なパフォーマンスはいいが危機に弱い。法律を破られると倫理の歯止めなしにウイルスが好き放題暴れてしまう。つまり、あるレベルが駄目になるとシステム全体が狂い出す。神様のことを現世の感覚で考えてると通常の運用には具合いいかもしれないが、トラブルの時にひどいことになる。

イスラム圏や中国にはシングルユーザモードのような非常用のシステムがあって、GUIはおろか大半のコマンドが駄目になっても、最低限の倫理を守って生きのびる強さがある。これが長年異文化と対決してきた一枚岩でない国の強さである。

日本には経済というGUIがダメになった時に、落ちていくコマンドラインモードがない。アプリとカーネルが共倒れでおかしくなって、貧乏になると生きがいがなくなったり、会社がなくなると居場所がなくなったりする。

そして、このたとえ話が収束するのが「できるEXCELシリーズ」だ。リテラシーでなくこういう表面的、刹那的な知識がパソコンの技能であるとされてしまう所に、病的に物事の本質というものから目をそむけたがる日本人が見える。