「耳をすませば」にミンデルを見る
ミンデルの概念を使うと「耳をすませば」がよくわかるし、逆に「耳をすませば」でミンデルを理解することもできる。
「耳をすませば」では主人公の雫の日常生活が一次プロセスである。一次プロセスであるから、室井滋が母親の声を演じ、雫の住む公団住宅の狭さなどをリアルに表現する必要があったのである。そして、二次プロセスとしてのバロンの物語がその中に立ち現れて来る。一次プロセスと二次プロセスは、表面的には全く独立で、互いの関係を持たずに動いているが、何かの拍子に両者が突然交錯する。その瞬間を描いたのが「耳をすませば」である。
そして、二次プロセスとしてのバロンの物語は、断片的にしか出てこない。それは未完なのではなく、向こう側では最初から完成しているのである。しかし、今の雫には、その物語を完全な形で引っぱりだすことはできない。おそらく、最後に雫が書きあげた物語は、本人が言うように不完全なものである。その物語は別の世界では完全なかたちで生きているのだ。それに気づいた時、俺はミンデルがなんで「プロセス」という言葉を使うのかを一歩深く理解した。
そして、その物語は猫のムーンに導かれるようにして始まる一連の出来事をきっかけとして、生まれてくる。ムーンは共時性のシンボルである。ムーンは気まぐれに散歩しているだけで、明確な意思を持って雫を誘導しているわけではない。が、全く雫と無関係に動いているわけでもない。微妙なかたちであるが雫を見ていることは見ている。見てはいるが積極的に雫を探しあてたわけでなく、偶然、出会ったようにしか見えない。このような特性はまさに「共時性」という現象そのものである。
因果律は絶対的な唯一の真理ではなく、ただの認識のための枠組みにすぎない。共時性も論証したり否定したりできるものではなく、別の枠組みである。両者に優劣はなく、ただ枠組みが違うと違うものが見えるだけのことである。
雫はムーンが目の前を横切ったチャンスをつかみ、見事に一次プロセスと二次プロセスが交差する地点にたどりついた。
とは言っても二次プロセスが日常に侵入してくることは、決して楽しいことではない。まさにこの物語に書かれているように、狂気に一歩近づくような混乱と混沌である。飯も食えず眠ることもできなくなり、全ての秩序が崩壊していく。しかし、そこを通り抜けることで、一次プロセス、すなわち日常に新たな意味と力が備わってくるのである。
ここで血を見ないことをなまぬるいと思う人もいるかもしれないが、一次プロセスが一次プロセスとしてしっかり描かれていて、その中でもがく雫の姿は俺には結構シビアである。そして、そこを抜け出した時に言う「私やっぱり高校に行く」というセリフに、俺はかなり感動した。このセリフはとてもファンタスティックでスリリングであると思う。
もし雫が、ムーンという共時性を無視してしまったらどうなっただろうか。おそらく、雫は無駄な混乱を経験せず何事もなく中学を卒業しただろうが、二次プロセスは地下で着々と進行している。そして、より破滅的、より暴力的な形でいつかはそれと出逢わなくてはならない。残念ながら、そのような悲劇的な一次プロセスと二次プロセスの衝突がこの国の若者たちに起こっているのだと思う。
そして、これはミンデルとは関係ないことだが、俺がなんでこのアニメが好きなのかと言うと、久石譲の音楽が一番マッチしているのがこの作品だからだ、ということにも今日気がついた。全く、見るたびに新しい発見があるものだ。