放射脳と御用学者はどちらも「論文」の価値を見直せ!

原発問題についての議論が混迷するのは、一般の人と学者コニュニティの相互不信が一因になっていると思う。「御用学者」という言葉を乱用する人たちと「放射脳」という言葉を乱用する人たちだ。

両者が完全に合意することはあり得ないと思うが、今のレベルのすれ違いが宿命的でどうしようもないことだとも思わない。見逃されている重要なポイントがあると思う。

そのポイントとは、「論文」というものの価値を再認識して、それを対話の糸口とすることだ。

放射脳は学者が100%政治的な発言しかしないと思っているし、学者は「論文」というものの社会的な意義について無自覚だ。

「論文」を理解できるのは学者だけだから、これは学者同士のコミュニケーションには使えるけど、啓蒙の役には立たないというのが普通の見方だろう。

しかし私は、「論文」とは「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」だと思っていて、その点において、むしろ、「論文」を読まない人にこそ価値があるものだと思っている。

と言っても自分では論文なんてほとんど読んだことがないが、なぜそんなことを断言できるかと言えば、ソフトウエアの世界がアカデミズムの世界の知恵の一番大事なことを拝借したものがオープンソースという方法だと思っていて、そのポイントが「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」だからだ。

ソフトウエアの「弱さをさらけ出す」とは二つの意味があって、一つは、第三者セキュリティホールバックドアを調べられること、もう一つは、本家と同等の派生ソフトを誰もが(とは言えないとしても比較的少ない労力で)作れることだ。

たとえば、Google Chrome には、Iron という派生ブラウザがある。

Googleは信用できない会社でインターネットのさまざまな分野で大きな支配力を持っているが、何でも好き勝手にできるわけではない。度がすぎたプライバシー収集や自社サービスへの誘導をやれば、自然とこのIron ブラウザが有名になって、みんなこれを使い出す。

だから、Googleを信用できなくても Chrome (正確にはその元になっているChromiumブラウザ) は信頼できる。

グーグルが自社製品をオープンソースにするのはどういう意味かと言えば「俺を信用する必要はない。俺の製品を信用しろ」と言っているのだ。

学者も、「俺を信用する必要はない。俺の論文を信用しろ」と言った方がいいと思う。

グーグルが Chrome でやりたい放題ができないのと同じように、いかに政治的な発言をする学者でも、全く論文を意識せずに発言することは難しい。恣意的な学説を論文として発表することは難しい。

論文が、論文誌にのるには、「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」で書かれている必要がある。つまり、再現実験をしてデータの正当性を確かめたり、推論の過程をチェックすることが、同業者には簡単にできるような書き方をしないと論文は論文として認められない。

アントニオ猪木は、相手の技を無理によけず、あえて受けて、それでも倒れないことで、自分の強さを観客と対戦相手に見せつける。それと似ている。

今の総合格闘技は、相手の技を殺す強さ同士の戦いだが、一般書籍の優劣はそれに近いと思う。一般書籍では、自分のテリトリに読者を引きこむことで評価が決まる。

論文の強弱は、猪木の強さのようなもので、自分独自のロジックの外で勝負を受けないといけない。

もちろん、オープンソースも論文も万能ではない。オープンソースのソフトウエアにもセキュリティホールはあるし、捏造されたデータによる論文が一時的に高く評価されることはある。

だが、「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」によって、一定の信頼性を自動的に(ローコストで)担保するという方法論が、どちらの分野でも有効に働いていることは間違いないと思う。

少なくとも、ソフトウエアの分野では「オープンソース」という言葉を「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」に従ってないソフトに使うと、怖い人にネチネチといじめられる。私なんかは、いつも、それにビクビクしながらブログを書いている。このことの社会的な意義は大きくて、ソースコードが読めない人でも「オープンソース」であるかどうかを確認することで、ソフトウエアの信頼性や将来性を簡単に評価できる。*1

だから、アカデミズムの人も、「論文」という「自分の弱さをさらけ出すフォーマット」が論文を読めない人も含めた社会全体に大きな意義を持っていることにもっと自覚的になった方がいいと思う。

  • どういう論文を「論文」として認めるか、広く合意された基準を作り、維持する
  • 何が論文として確認されている事実で、何がそれに基く推論であるかを分けて発言する
  • 論文の評価、解説についてセカンドオピニオンが簡単に得られるような仕組みが作れないだろうか?
  • 学者に対する根深い不信を前提として、学者でなく論文の信頼性を回復する努力
  • 論文にできるレベルの事実の認定に誤解がある場合は積極的に誤解を解くべきだが、そこから政策決定につなげるプロセスへの直接的関与は抑制的であるべきでは?(あるいは両者が区別できるような意見表明をすべき)

それで、学者に対する不信が過ぎて混乱してしまっている人に言いたいことは、こうだ。

私も、自分や回りの人を守るために、学者に騙されないことは大事だと思います。でもそのためには、学者というのがどういう生き物かよく勉強した方がいいと思います。学者は専門外のことでも、論文と違うことを言うと我慢できない人が多い。それで、一般の人が家族の健康の心配することを「放射脳」と言って馬鹿にしたりしますが、それは、政府や企業や官僚を守るためではなくて、「論文」と違うことを信じる人が許せないのです。そして、その攻撃性は、御用学者に対しても同じように向けられます。御用学者が一般に向けて嘘を言う時も、そういう在野の科学者、原子力村の外にいる同業者の目を意識しています。

こういう状況で、何が確実に安全か言うことは無理です。でも、「論文」というものを学者がどれくらい尊重しているかを知っておくと、わかる所、安心できる所が少しづつ増えてくると思います。それは簡単なことではないですが、「論文」を読めなくても、学者の生態を知ることはできます。御用学者を自分で攻撃するより、学者同士で戦わせる工夫することが有効で、「論文」をその道具として活用しましょう。



私は、アカデミズムの世界の実態については全く知らないので、オープンソースソフトウエアからの類推がどこまで有効なのか確信がないが、少なくとも、放射能の問題は「論文を読めない人にとっての査読論文システムの価値」が問われている場だと思う。



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*1:現在のグーグルやアップルは、オープンソースである製品とそうでない製品を複雑に組合せて高度な戦略を取っているので、オープンソースであることを過信することは危険だが、それでも、内外のオープンソースソフトウエアによって、企業の戦略に大きな制約がありそれが大局的に消費者の利益になっていることは否定できないと思う