可塑的アーキテクチャの中での倫理
たまたま秋葉原の通り魔事件に遭遇して、それをUStreamという無料の配信サービスで配信した人がいて、2000人の人がリアルタイムで見たらしい。
印象に残った意見をいくつかピックアップしておく。
非難してる奴ってどんなんよ?//こうゆう時に『自分に出来る事』をやるのが市民社会だろ?/立ち去る事も、傍観する事も出来たんだぞ?それを…/なっさけねー、ミャンマーでも中国でも好きな管理国家選んで逝ってクレ
現場に居合わせた素人がこのような情報をとってネットで公開すると、それをプロの報道関係者による報道と比較することで、既存メディアの情報操作や印象操作に対する牽制となるな。
規制したがる連中の前提って、情報発信にそこそこ資本がかかる前提なんだよ。資本が必要な場合は、確かに波状攻撃で発禁処分は効く。経営に打撃を与えて、経営者に対する圧力となる。けれども掲示板への書き込みとか、UStreamやYoutubeからの削除って、本質的に効果がない。YoutubeやUstreamそのものを禁止しても日本が余計にガラパゴス化するだけだ。
だから、今日、不意に「非日常」に出くわした人達の行為と、ある覚悟を持って「非日常」の真っ只中に突っ込んでいこうとする「ジャーナリスト」の行為を同列に並べるべきではないと思う。表層に立ち現れる行為は同じだとしても、その背景や目的は全く違うし、仮に「メディア」を持つことが容易になったとはいえ、プロである「ジャーナリスト」と同列の覚悟を万人が持つことなど不可能だろう。
それで、これ自体に関する私自身の意見は、もう少しゆっくり考えてみたいので保留しておく。
ただ、今の時点で言いたいことが一つあって、それはこういうことの是非を考える上で、現状の技術や目の前にあるサービスを前提にしていたらすぐに無意味になるということ。
今回のことで、UStream というサービスについて初めて知った人も多いかもしれないが、これも近いうちに、YouTubeに近いくらいまで一般的に広がり認知されていくだろう。携帯からワンタッチでそういうサービスを使えるようになるのもすぐのことだ。
たとえばこんなサービスがもう始まっている。リアルタイム配信もちょっとしたきっかけで、急速に一般化するだろうし、普及する過程で(YouTubeからニコニコ動画のような)変貌をとげる可能性もある。無数の石ストリームから玉ストリームをリアルタイムで選択するサービスとかも当然出て来るだろう。
また、Global Voices では、事件翌日(9日)の午前3:00頃(事件発生から約15時間後)に、現場にいた人のブログをいくつか引用した下記の記事をアップしている。
これを書いている9日16:00現在、この記事はマケドニア語と簡体字、繁体字の中国語にそれぞれ翻訳されている。
だから、こういうことは、今よりずっと容易にできるようになっていくし多様な広がりを持つようになる。それを折り込んで考える必要があるだろう。
もちろん、誰でも普通にやることだからそれが正しいということにはならないし、止めようがなくてもそれが正しいか正しくないか考えることは無駄ではない。ただ、その時に、表層的で瑣末なことにとらわれていては、意味のある考えにはならない。
上に引用した意見は、リアルタイム配信がどれだけ普及しても意味を持つものだ。いやむしろ、それが普及する程、本質的な論点として浮上してくるようなポイントを指摘しているように私には思える。
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