空気党=2ちゃんねる VS 法と論理党=RESTfulはてな の二大政党制

これを現状分析と未来への提言に分けて読むと、現状分析の部分には同感だけど、提言としてはその方向性にやや疑問がある。

現状分析の部分はひとことで言えば「日本人は世代によらず『空気』への依存が強い」ということだろう。「空気」は、共通前提から生まれるが、その共通前提の作り方が世代ごとに変遷してきた。

  1. 団塊世代以前の日本人は、日本という国自体の持つ共通前提
  2. 団塊世代は世代意識から生まれる共通前提
  3. 新人類世代は「分かる奴には分かる」という世代内差異を用いて集合的アイデンティティを構築
  4. それ以降は、共通前提の構築の困難さから「繋がりの社会性」を指向(参考→「繋がりの社会性」は繋がりを指向しない -- Baldanders.info)

ということで、その強迫的な共通前提構築への執着が暴走したものが「KY」であるという話。

そこで「出でよ、新しき知識人」となるわけだが、ここで言う「知識人」とは、「空気」や共通前提に依存しないエリートであり、同時に「空気」を操作する能力を合わせ持つ所が「新しい」となるのだろう。

「空気」の反対概念は何か考えてみると、「法」とか「論理」になると思うが、「新しい知識人」は自分たちの考えを構築する過程において「法」や「論理」に基いた冷静な議論ができて、それによって大衆を率いる時点では、「空気」を超越し使いこなし、それによって世論をリードしていくということではないだろうか。

しかし、「法」の背後には「神」がいて、「空気」の背後には「天皇」がいる。「法」も「空気」もそれ単独で共有された共通前提となり得るものではなく、超越した所からそれを見守る存在を意識して、はじめて対話の基盤として安心して使えるものになる。

おそらく宮台氏は意図的に「天皇」の話を省いているのだと思う。「空気」を論じる上で「天皇」の臨在は欠かせない要素だが、それを図式の中に入れると話がとたんにややこしくなるからだろう。しかし、「新しい知識人」の位置を考える上で、「天皇」との関係を抜きにして考えることはできない。

ひろゆきがいるから2ちゃんねら達は安心して議論ができる」とある人が言っていたのだが、まったくその通りだと思う。ひろゆきは積極的に自分の意見で2ちゃんねらの世論を率いることはないが、彼の臨在は2ちゃんねるの欠かせない要素である。

明確な方針を持たないリーダーの元で、左右に分かれてとことん衆議を尽くすというのは、西郷隆盛をはじめ、日本におけるリーダーシップの一つの「型」だ。リーダーは最後に「よし分かった、それではみんなの言う通りにしよう」と言うだけだが、議論の間中、黙ってそこに居るということが必要なのである。

この仮想的な「天皇」と「みんな」という図式の中で、「新しい知識人」はどのように位置づけられるのか。「法」や「論理」という別の神を信じている時点で、「新しい知識人」は「みんな」の外側にいるとみなされる。彼らが、「空気」を左右できるのは、そのことに他の「みんな」が気がついてない間のことで、それがバレたら反感を書い、「空気」は一気に反対側に流れる。

だから私は、「法」か「空気」か、「神」か「天皇」か、という根本的な対立構造をそのまま政治の仕組みの中に組み込んでしまうのがよいと思う。

背後に超越的存在を必要とするとしたら、「法」も「空気」も大して違いはない。根本的な違いは何かと言うと、「法」はひとつひとつの言葉にURLをつけることを要求するということだ。

インターネットのはるか前から、聖書の言葉には一文ごとに番号が振ってある。言葉に一意な番号をつけて後で参照可能にするというのは、「法」の精神の根本ではないかと思う。後で参照できるから、言葉が相互にリンクされストックとなる。「水に流す」ことができないように言葉を管理するのが「法」の根本だ。

2ちゃんねるニコニコ動画では、言葉にURLがつかない。2ちゃんねるのレスには一件ごとのURLがあるが、その効力を打ち消すように、2ちゃんねるの言葉はリンクでなくコピペされて広まっていく。

ひろゆきという天皇に似た存在の臨在の元で言葉を蓄積せず流していくというスタイルが、日本人が古代から持つ感性にピッタリあっていたので、この両サービスは広まったのだと私は思う。

それと対照的に、言葉の一つ一つにURLをふり蓄積していくのがブログであるが、そのポイントについて徹底しているのが「はてな」である。
はてな」のサービスでは、言葉の一つ一つに一意のURLがつけられ、その多くはURLによって公的に参照可能である。

最近流行りの技術用語を使えば、RESTfulであるかどうかという点で、両者は対照的だ。

はてな」の中にも、「空気」を指向したように見えるものはある(参照→Hatena Star/Message は「繋がりの社会性」をコード化する? -- Baldanders.info)。むしろ、はてなの独自性は、RESTfulなアーキテクチャーの上に「空気」の基盤を構築することかもしれない。

しかし、RESTfulであるということは、つかまえて分析できるということだ。たとえば、はてなブックマークについて論じる時に、その問題点を具体的に「このエントリーに対して、このようなブックマークコメントがされた」ということを一つ一つのURLとともに示すことはできる。だから、はてなブックマークに対しては実証的な研究や議論が可能である。

しかし、2ちゃんねるのメディア特性を論じるには、コピペによって改変されて伝播していく流言の分析が必要だが、これにはURLが無いので、主観的に論じるしかない。

一意なURLの有無は、「法」と「空気」の根本的な違いに対応している。

だから、日本の言論にとって最も良い状況とは、2ちゃんねるはてなが二大政党として台頭し、ガチンコでぶつかり合う関係になることではないだろうか。

2ちゃんねるでは「空気」による議論が行なわれ、はてなでは「法」と「論理」による議論が行なわれ、両者は基盤が全く異なるのでその議論が合意に至ることはあり得ないが、かろうじて互いに参照可能な関係にある。

戦後の日本は、「空気」と「法」の大連立政権の時代が長く続いてきた。その大連立が解消されて、二大政党制に移行する時期だと思うのだが、その潜在的な政治の構造を、いちはやく顕在化しつつあるのがネットではないかと思う。「はてな」と「2ちゃんねる」が言論の二大勢力として認知され、そこで徹底的な議論が行なわれれば、そこから生まれてくる結論は、多くの国民が納得できてかつ現実的に有効な政策になるのではないかと私は思う。

既存の政党は、この議論の場に対する事務局のようなものになればよい。