巨大なラーメン

私の父は自営業者だったが、一般的に「自営業者」という言葉の持つイメージとは対極的な浮世離れした所のある人間だった。だから、自分が自営業者の息子として育ったことが、自分の世界観に影響を与えていると考えたことはなかった。

だけど、最近になって、いろいろな人と世間話として仕事や景気の話をしている時に、やっぱり自分は自営業者の息子なのかもと思うようになった。

というのは、私は「働いて収入を得る」ということの基本的なモデルとして、客に一杯のラーメンを出して「ごちそうさま」と言われながら500円玉を受け取ること、というようなイメージを持っている。ラーメンがうまければ収入が上がるし、ラーメンがまずければ収入が下がり場合によっては失業する。

これを意識したことはなかったが、意識してみると、巨大な組織の中で組織の一員として働いていても、この「ラーメンモデル」の延長として自分の仕事を見ていたような気がする。

つまり、自分の会社は他の会社と一緒に、とてつもなく巨大なラーメンを作っている。それを東京ドームのような巨大などんぶりに入れると、巨人がそれを食って轟きわたるような声で「ごちそうさま」と言い、やはりとてつもなく巨大な500円玉を置いて店を出ていく。その巨大な500円玉を分解すると、その一部が私の給料になるのだ。

私が作る製品も私の顧客も想像できないほど巨大であるが、とにかく我々はある一つの食欲を適正な形で満たす必要がある。それに成功すれば給料がもらえるし失敗すれば巨大な客は別の店に行く。

想像の中でラーメンのスケールをいくらでも大きくしていくことはできるのだけど、どうしても自分の受け取る対価と満たされる客の食欲が結びついたモデルから離れることができない。世の中にたくさんの会社や職業があっても、巨大なラーメンの麺を作るか具を作るかスープを作るか、そういう違いであると考えて、公的な機関というものもナルトをまとめて製造して届けてくる業者のようなものととらえてしまう。

このモデルが世間話の障害になっていることに気がついて、そこから逆算して私は自分が巨大なラーメンモデルを刷り込まれていることを発見したのだ。

世間話でナマナマしい話をすることはないが、お互いに、相手の仕事や収入が気になって失礼にならないようにそれとなく探りを入れながら談笑する。談笑しながら探りを入れる。そういうことがそれほど抵抗なくできるようになって気がついてみたら、私は相手が期待する情報を提供できてないらしかった。私の仕事も職種もあまり一般的なものではないので、いろいろ不思議に思われることは折込済みなのだけど、私は世間話の範囲で、意識しないうちに自分の所属する組織が作る巨大なラーメンと巨大な顧客について語ろうとしていたが、それは相手の求める情報ではなかった。

そういう食い違いを何度も何度も経験して、やっと巨大なラーメンモデルで職業をとらえる人が少ないことに気がついた。

同時に、自分のものと違う一般的なモデルも漠然と理解したように感じたが、それは、給料は身分に応じて払われるべきものというモデルだ。「これくらいのレベルの会社で課長のレベルの仕事をしていれば相応の給料はこれくらい」という感じ。誰かが仕事をきちんとしているかどうかは、その身分に応じたふるまいができるかどうかで評価される。身分が上下することで給料がそれに比例して上下し、どういう身分にも適したふるまいができなくなって一切の身分を失うことが失業であるということだ。

先方は、失礼にならない範囲で自分の身分を開示して私の身分を知ろうとする。私がどのような身分を満たすことで収入を得ているのか知りたがる。でも、私の身分は私の仕事よりもっとわかりにくく、先方にとって結局、私の収入がどこから来るのかは謎のままだ。そして、私も相手のラーメンを誰が食うのかは謎のままだ。

誰も食わないラーメンを作っているのに収入が保証されている仕事が世の中には多いなあと私は不思議に思うのだが、身分が明確でないのに収入を得る人間が増えてくることを不思議がっている人も多いようだ。