働くもの食うべからず?

働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよというエントリで、「働かざるもの食うべからず」と書こうとして、「働くもの食うべからず」と書いてしまった。(KoroKoroPockleさん、ご指摘ありがとうございます)

これは単純なうっかりミスなんだけど、フロイト的にうがった見方をすると、「働くもの食うべからず」と私が思っているということになる。少なくとも、「働かざるもの食うべからず」は、私にとって見たくない言葉だ。だから、推敲している時に、目が素通りしてしまったのだろう。

私の感覚では、「働く」という言葉には正反対の二種類のニュアンスがあると思うが、その一つには確かにかなり反感がある。

「働く」という言葉を社会と自分との回路を広げるという意味で使う人と、逆にその回路を狭くして閉じることを指してこの言葉を使う人がいる。

「仕事に就く」ということは、「わがままが許されない限定された言動を期待される人間になる」ということなのか、「社会からの期待と社会への影響力の双方において自分のプレゼンスが高まっていくプロセスの始まり」ということなのか。

人間にとって他人と関わることは、ほとんど状況に関わらず重要なことだと思う。その関わりが質量ともに拡大していくことは望ましいことで、「働く」ということが、その一環としてあるなら、それは良いことだと思う。

逆に、社会との関わりの仕方が限定されて狭くなることを「働く」と呼ぶ人も多い。「働かざるもの食うべからず」という言葉は、なんとなく、そういうネガティブな意味の「働く」を連想させるので、「そんなこと言う奴こそ食う資格無し!」と私の無意識は言いたかったのかもしれない。

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