組織には厳しく人には優しい「垣根の無い世界」

「フラット化」の周辺で微妙に関連しているエントリーで気になるものがいくつかたまったので、若干未整理だけど全部吐き出してしまおうと思う。

最初は、「お手本になる30代の先輩が見つからない」という切実な嘆き。

その会社でのキャリアを考えるときに、バリバリ働いてる(だろう)30代―いわば中堅―をまず見ると思う。5〜10年すると大体こんな感じになるのか、というモデルケースとして30代の中堅社員は見られると思う。

今、メンタルヘルスの対象になっている30代が急増しているらしいのだが、その一因となっているのは終身雇用の事実的な崩壊かもしれんね。逃げ切りたい部長クラスのお荷物が30代の足を引っ張っている気がする。

次は、「逃げ切りたい部長クラス」のひとつの事例。「住みたいところに住める俺」さんのシリーズ物である。

こういう人間を大勢抱えても利益を出さなければならない日本企業って大変だ。 いつまで続くやら。

原文では「こういう人間」は「こういう人間(含む私)」になっているのだけど、これだけバイタリティーと観察力と英語力がある人が力を発揮できないのは、組織の方の問題である。

それはともかく、そもそも組織とはそういうものではないかという意見もある。

人生経験豊富な社長は、「誰もが能力があるわけではないどころか、能力のある社員のほうがまれだ。それでもやっていけるのが会社だ」と、世の中を知らない若者に教えてくれようとしたわけだが、こうした論理にしたがえば、10人のなかの1人は、ほかの9人の分まで働いているわけだ。待遇が同じならば、ばかばかしくなって転職してしまいそうだ。しかし、つねにそうともかぎらない。逆に、自分が頑張らなければ、と思うこともある。そして、その1人がいなくなると、こんどは別の誰かが頑張りだしたりする。

 小さな会社だから、それですむという面はあるかもしれないが、大きな会社でも、ひとつひとつの部署の人数は少ない。少し前までの日本の会社は、程度の差はあれ、こうした感覚だったのではないか。みんながみんな報酬相応の仕事をしているわけではないが、社員全体で見あっているならば、会社はそれでよしとする。できる人の報酬をできない人に分けていることになるが、社員も、そんな細かいこと(?)を気にする人はそれほどいなかったように思う。会社とはそういうものだ、と多くの人が(意識するしないはともかく)思っていたのではないか。

歌田さんは、この発想と逆の成果主義について各種アンケート調査等をもとに考察し、総論賛成でも各論反対となりがちで、「勝ち組」も含めて不満や不安を増すことになると結論している。

「成果に見あわない年功序列の報酬で満足すべきだ」などといまさら主張しても、賛同する人はおそらくあまりいないだろう。しかし、成果主義的な発想を大幅に取り入れた企業社会が、「成熟した安定社会」とは正反対の方向に向かっていることは確かなのではないか。

冒頭の、id:kagamihogeさんも、正しい評価システムを欠いた成果主義は、何も状況を改善しないだろうと言う。

内側から見た富士通成果主義のくだりみたく、しょっぱい成果が山のように積みあがるか、無視されるか、形骸化されるだけだろう。そんな状況じゃどうせロクな評価もせずに「この前はAさんに+評価上げたから次はBさんかな」とかんなる。

しかし、「フラット化」の波は、成果主義の問題点の改善が終わるのを待ってくれない。

「フラット化」という言葉を「結果の平等が実現する社会」と解釈している人がいたという話には驚いた。

今特定のサイトを挙げることはできない(忘れちゃった)のであくまで印象レベルだが、いろいろなところで、「でも格差は残ってるじゃん、ヒエラルヒーがあるじゃん、フラットじゃないじゃん」みたいなことを言う人がいるように思う。(中略)

平たい言い方でいえば、「チャンスの平等」があっても「結果の平等」が確保されるとは限らない、ということになろうか。結果の差は、さまざまな原因で発生するが、「過去にあった差」が原因となる部分が少なくなった、というのがフラット化ということだ。いってみれば、「目の位置」が同じ高さになったのではなく、立っている床の高さが平らになった、ということに相当するだろう。

これは、英語をそのままカタカナにして翻訳したことで原語のニュアンスが失なわれてしまったという、単なる術語の選択の問題かもしれない。そうだとしたら「垣根の無い世界」という訳語がいいのではないかと思う。

でも、それ以上に「結果の平等」に対する日本人の無意識的な執着を表しているのかもしれない。

堤防が壊れて洪水が起きる、と言うと何だか恐ろしい気もするけど、例えばナイル川は毎年定期的に氾濫したからこそ、エジプトに測量術やピラミッドみたいな高度な文明が栄え、農地も肥沃になったわけなので、徒に怖がるよりも、「堤防が壊れたらどうなるのか」シミュレーションして、良い方向に持って行くという道、もあるのではないかと思うのです。

「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」のTomomiさんは、私の、堤防と洪水という喩えを受けて、このように言っている。

確かに、戦後60年以上氾濫がなかった日本は、土地が痩せてしまっていると思う。「お手本になる30代の先輩が見つからない」というのは、その一つの表れだろう。

そもそも、「評価基準に全員が不満なく合意できて、全員が納得したら成果主義に移行しましょう」なんていうのは、成果主義ではない。それぞれ手前勝手な評価基準を持つ組織が乱立し、評価基準が成果のみで評価され、成果を出せず評価基準を変えられない組織はすぐに消滅するのが成果主義だ。

その評価基準が人に厳しいものである必然はない。人に厳しいものか人に優しいものかはどっちでもよくて、要するにその組織がその評価基準を通して成果を出せばよいのだ。

「垣根の無い世界」は「組織には厳しく人には優しい世界」になると思う。そうすべきだと思う。