ブログを「孕み」そしてエントリーを「産む」

これをぼんやり聞いていて考えたこと。

「妊娠」という出来事は、人間の一生の中でも特に変わったこと、特異なことのように思える。

でも、ちょっとだけ見方をずらすと、「孕みそして産む」というプロセスは、「妊娠」に限らず、かなり日常的に起こっていることのようにも思える。

たとえば、私にとって、ブログを書くということは、アイディアを「孕み」そしてエントリーを「産む」という風に記述した方がしっくりくるプロセスだ。誰かのエントリやニュースや読んだ本を「入力」として、それを組み合わせたり「処理」して、結果としてエントリーを「出力」するというような、情報処理的プロセスではない。少なくとも主観的には。

起業とか商品企画とかソフトウエア開発とか、ビジネスの中で起こる出来事も、情報処理的プロセスとして記述されるのは主として信仰上の理由であって、リアリストであろうとするなら「孕みそして産む」という形で記述すべきではないだろうか。

教育なんかも、学校へ行って操作可能な知識を授かって来るということだけが問題ならば、睡眠学習が理想的な形態ということになる。それよりは、子供は何かを潜在的に孕んでいて、それを産むことで職業人になるという言い方の方が本質的だ。出産すると同時に母親も生まれるように、学校に入る人間とは違う人間が卒業するというのが、本来のあり方だと思う。

「孕みそして産む」という形の人間の営みが数多くあって、その頂点に、孕んで産んだものが目に見える妊娠、出産という出来事がある。他のことは、不完全でバーチャルな出産であると見た方がいいような気がする。

そしてそう見ると、三砂ちづるさんの「助産 VS 産科医療」という枠組みは、非常に重要な意味を持つ。

「産科医療」は、妊婦を患者あるいはリスクファクターの塊として扱う。妊娠は、正常な人体のあり方からの逸脱であって、それを正常に復帰させることが「産科医療」の役割である。その為には、リスクを把握して、早めにリスクに対処することが必要とされる。「孕みそして産む」プロセスでなくて、その結果に注目する。母体と子供が分離して、母体が妊娠前の状態と同じ状態になれば、「産科医療」は目的を達成したとみなす。

助産」においては、妊娠は、ごく正常で日常的な営みの延長線上にある。だから、「孕みそして産む」というプロセス全体を意味あるものと見なして、母体がそのプロセスを通り抜け経験すること全体が対象となる。産んだ人が「母親」になるという変容が、「助産」の目的である。

三砂さんは、もちろん「産科医療」を全否定しているわけではない。

実際には、出産にはさまざまなリスクがあって、時にそのうちいくつかが顕在化する。その場合は、「助産」のパラダイムでは対処できなくて、操作的、分析的な「産科医療」が必要となる。

ブログを書くことにも多くのリスクがある。無知をさらす無教養を晒す政治的なことで対立する商売上の関係者が変な風に誤読するコメントスパムが来襲する炎上するたまたまアクセスが伸びて他のブロガーから恨まれる無断リンク禁止儀礼的無関心とかで怒られるさらにはどこかの読者が人知れず誰にも理解できない理由で五寸釘。もちろん私もそのうちいくつかのリスクには、「産科医療」的、分析的な予防措置を予め講じている。

しかし、リスクしか見ないで何かを「孕む」ということを異常事態としか見れなくなったら、そのことがもう異常事態だ。

三砂さんは「産科医療」のパラダイムでは、「妊娠」がリスクファクターの塊にしか見えないだろうと言う。それは有用ではあるけど、役割を限定して運用すべきだと言う。

私もそれには賛成である。そして、その警鐘は、もっと幅広く応用できるのではないかと考えている。

先生の役割も第一には「助産」であるべきで、子供が何をいつどこでどのように孕みそして産むのか、そういうコントロールは最小限にすべきで、結果よりプロセスを重視し、子供が変容することに重点を置くべきだと思う。経営者と社員の関係もそのようになるのが望ましい。

先生が子供をコントロールし、経営者が社員をコントロールし、産科医が出産日をコントロールするのは、最小限にすべきだ。でも、そういう役割を全否定するのも行き過ぎだ。

ブロガーが自分のブログをどれくらいコントロールすべきか、という問題も、実に微妙な問題だと思う。

あるいは、教育された子供はどのくらい先生の手柄であるべきか、社員の業績はどれくらい社長の業績であるべきか、ブログに書かれたことは100%ブロガーが書いたものとみていいのか、子供が親の所有物なのか。こういうのも、微妙な匙加減の中に正解があるタイプの問題だ。ただ、いずれの場合もトラブルが起きた時は、ほぼ100%後者が責任を負わなくちゃならなくて、これはこれでしょうがないと思う。これは「孕みそして産む」というプロセスにまつわる根源的な矛盾であって解消することは不可能だ。

そして、こういう難しい問題について、モデル、手本とすべきなのは、やはり「孕みそして産む」というプロセスのひとつ完成形である「出産」という出来事だろう。「出産」という出来事に正しく対処できて、その意味を理解できたら、その他の出来事については自然にどうすべきかわかってくるのではないだろうか。

「出産」をベースとして、「孕みそして産む」というパラダイムで社会を再設計したら、たくさんの問題に解決の糸口が見えてくると思う。

ちなみに、このエントリーのアイディアを孕ませたのは、yomoyomoさんであると金ブロガーの迂闊な免疫系もそうだが、yomoyomoさんのessa評は、いつも私に「自分が何故ブログを書くか」「自分はどのようにブログを書いているか」について考えさせるのだ。孕ませた責任を取れとか認知しろとかは言いませんけどね。