私の渾身のGoogle論に「隆慶一郎」というタグをつけた人がいる

それは、xx-internetさん。面白いことをするなあ。

何かの間違いなのか全てお見通しなのか高級なギャグなのか見当もつかないけど、私は「影武者徳川家康」と「一夢庵風流記」と「捨て童子松平忠輝」は読んでいて、どの作品もかなり好きだ。だから悪い気はしない。

というか、マッチポンプ的に続きとして書こうとしていたことがあって、そこににつながってしまうので、とても驚いた。だから、このエントリの本文には、ほぼ予定どおりの内容を書くけど、タイトルは上記のように変更した。

私が理系文系という言葉で煽るのは、文系がサボっていると思うからだ。具体的に言えば、文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等から、「悪」という概念がスッポリ抜け落ちていると思う。「悪」についてきちんと考えないなら文系の存在価値はないような気がする。

グーグルのやってることをちょっと延長すると、「悪」についてかなり明確な定義ができる。たとえば、経済学的な「悪」とは、GNPを減らす行為だ。詐欺とか盗むことを放置すると、富を生産するインセンティブが落ちる。詐欺を許容するモデルとしないモデルを立ててみれば、詐欺や盗難を放置することで、生産的な活動より犯罪の方が割が合う人間が増えて、国民総生産が落ちることが説明できる。

つまり、経済学的には、一定のルールの元で特定の指標を下げるような行為が「悪」であり、それはとても明解に定義され得る。

これから、グーグルによって、経済以外のいろんな行為のルールが明確になっていくだろう。それだけでは「悪」は定義できないが、目標とすべき指標について合意できれば、グーグル的な「悪」が定義できる。たとえば、「全ネットユーザが検索によって目的のページに辿りつける確率の平均値」を指標とすれば、SEOは悪である。

理系が扱える「悪」はこの程度のことであるが、このような相対的な悪であれば、理系的にかなりうまく扱える。グーグル的にかなりうまく扱える。

文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等は、もっと違う種類の悪を扱う必要があると思う。

人間は、相対的な悪だけではなく、もっと根源的な悪を持っている。「もっと根源的な○○を持っている」という表現は、もはやテンプレ化していると思うが、ここに入る○○は抽象的というか現実的でないものが多い。だから、根源的な悪以外の「根源的な○○」はほとんど意味がないと私は思うのだが、悪は大半の人にとって現実的で手応えのあるものだと思う。だから、特別扱いすべきだと感じる。

でも、さすがのグーグルの情報発電所も「根源的な悪」は扱えない。グーグルの中に入れた途端に、それは相対的な悪に変換されてしまう。

コンピュータの中では悪だけでなく、全てが相対的になる。でも、たいていのものは相対的になっても問題がない。むしろ、相対的になってうまく処理された方がいいと私は思っていて、だから、グーグルが「文系が悪いメソッド」で世界を「垂直統合」することに、私はかなり好意的であるし、実際に相当程度成功すると思っている。

ただ、唯一、「根源的な悪」だけが抜け落ちるだろうな、ということに、前のエントリを書いてようやく思いが至った。

というか、本当は話が逆で、もともと私はネットをやったりするようになる前からずっと、文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等が妙に薄っぺらくなっていて、それが気になっていたのだ。ずーーっとそれが気になっている所で、グーグルについていろいろ考えると、どうもグーグルがそういう薄っぺらい文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等を飲みこんでしまうようなストーリーが見えてきた。警鐘風味でそのストーリーを断片的に書きつつ、「あんな薄っぺらいもんなら消えてしまえ」という気が無かったと言えば嘘になる。

明かにグーグルは理系の学問と実践における巨大な進歩だ。文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等は、それと比べたらサボっていると思う。

グーグルが世界を「垂直統合」することには賛否両論いろいろあるだろうが、そのかなりの部分は、本来、文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等のサボリに向けられるべき議論になるのではないだろうか。

自分の中の「根源的な悪」というものを、誰もがもっとたくさん意識できれば、グーグルとよく釣り合いの取れた世界になる。今はそうなってないけど、釣り合いが取れないのは、グーグルが進み過ぎていることが悪いのではなくて、その他が遅れていることが悪いのだ。

いや文系の学問は、進む遅れるで評価するものではないけど、たとえば「隆慶一郎」のような重みがもう少しあれば、この天秤はもっとよく釣り合うだろう。