努力の中の自虐成分

普段はチャランポランにサボっていて、肝心なときにだけしゃしゃり出て来て喝采をさらう。こんな「ひらめき型のお気楽な天才像」ってのはウソだ。 単にその天才の努力が理解できないからそう思えちゃうだけ。だってその天才は息を吸ったり食事をするように、ごくあたりまえに努力しちゃうから、素人には努力しているように見えない。 しかも当人は「ん? 誰でも出来る当たり前の事をオモシロおかしくやっているだけだよぉ」みたいな認識で「マメな雑用」をこなして努力しちゃっている。そして「なんでみんなもやらないの? 面白いよ。ちょっと処理するのにヤヤコシイのも有ってワクワクするよ」ぐらいの天然さだったりする。

これは全くその通りだと思うけど、「努力には自虐が不可欠」というような信念を持っている人もいて、そこから来るすれちがいもあると思う。

言葉の使用法の問題にもなるけど、「自虐を含まない努力は努力と呼ばない」みたいな感じ。だから、見えててもそれを「努力」と呼ぶのを拒否する人がいるみたい。

「もっと努力しろ」とか言われた時に、その言葉の中の自虐成分が何パーセントくらいかを判別できると、もっとスムーズにコミュニケーションができる(そして、価値観の断絶が露になる)のではないだろうか。