人の生と死はシステム化できない

というショッキングなニュースがありました。

医会副会長の平原史樹・横浜市大教授は「当直や緊急呼び出しが多い過酷な勤務条件と、出産時のトラブルに対する訴訟の増加が、産科医が分娩をやめる背景にある。開業医の高齢化が進む一方で、産科医を目指す若者も減っている」と指摘。新たに産科を開業しても、初めから分娩を行わないケースも多いという。

医会は「分娩を行う産科は既にパンク状態で、横須賀市内の妊婦が横浜南部の医療機関で分娩を行うなどの影響が出始めている」と、全国的な傾向が県内にも表れている現状を説明。「県内の分娩受け入れの減少は少子化を上回るペースで進むため、医療機関の数で上回る都内などへお産の場所を求めざるを得ない人が増える」と危機感を強めている。

この傾向は全国的なもので、「どうする?日本のお産」プロジェクトというプロジェクトが発足したそうです。


これは出生率低下に伴なう長期的な傾向であり構造的な問題かもしれませんが、次の事件がこの問題に拍車をかけてしまったようです。

「誰が執刀していても、母体死亡となっていた可能性が非常に高かったと思われる」事例であったのに、担当医の方が業務上過失致死と医師法(異状死体の届け出義務)違反の疑いで逮捕されてしまったそうです。ここへトラックバックとしていただいた「こどものおいしゃさん日記」さんの次のエントリにも、この事件のことが触れられています。

出産時のトラブル、まして妊婦の方が亡くなるというのは、とても不幸なことです。しかし、避けられない不幸というものもあります。

私はこの問題は、「市民の総意で統一基準を」というのは違うのではないかと思う。人の死は誰かが痛まなくてはならないということでしかないのではないか。

これは、安楽死事件についてfinalventさんのコメントですが、不幸なことを社会全体として許容できなくなっていて、早急に「問題点」を探し「対策」を求めるという点で、つながる問題だと私は思います。末期で苦しむ患者を前にしてどうするかの決断を、家族が全面的に医師にまかせ、医師は「統一基準」にまかせれば、迷う人はいないしミスも起きないし後に悔いることもありません。そうやって「死」をやり過ごすことで、我々は何を解決しようとしているのか、何を回避しようとしているのか。

根本的に何を失なってこういう状況が起こったのか考えると、社会が過剰にシステム化されている為に、「理由」や「基準」がないものが排除されているということがあるような気がします。

人の死は理由なく悲しく苦しいもので、人が生まれてくることは理由なく喜ぶべきものです。子供を生む時には安心して出産できる環境があるべきで、そこに「理由」はありません。「理由」はないけど当然あるものが、世の中にはたくさんあったのに、社会が「理由」の無いものを拒否しだしたから、少しづつ歯車が狂って、回り回ってたくさんの具体的な問題、予算や人手の不足が起きているように私は思えてしまいます。

別の言い方をすれば、「人の生と死はシステム化できない」という現実が突き付けられているのではないでしょうか。「システム化できないもの」と「システム」の間には、齟齬があります。その齟齬が特定の人に理不尽に押しつけられているのは駄目な社会で、全員がその負担を一緒に背負えるのは良い社会です。良い社会に向けて具体的にすべきことはたくさんありますが、理不尽な負担を鍵にして、自分が何を回避したがっているかも同時に考えるべきだと思います。

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