我々はグーグル八分の何に怒るのか

20世紀の人文学が「核戦争」というテーマに取り憑かれていたように、21世紀に人文学というものの意味があるとしたら、「グーグル八分」を自分の言葉で語ることから逃げられない。その観点から見ると、「ウェブ進化論」への否定的な論評はもうひとつ食い足りないものが多かったが、やっと納得できるものに出会った。

ただ、こうやってリンクしただけでは、既に読んでいた人以外は間違いなく逃げ出してしまうような、哲学ジャーゴン山盛りの超難解な文章であり、かと言って、自分で解説できるほど理解しているわけでもない。

それでどうしようかと思ったが、なぜこの文章がこれほど難しくなるかについて書いてみようと思う。それは単純なことで、我々には「どうしても知りたくない知識」があるからだ。


人は、常に「どうしても知りたくない知識」から逃げ出そうとしている。「どうしても知りたくない知識」を突き付けられた時、全力でそれを誤解しようとする。

たとえば私が、「どうしても知りたくない知識」について「私が言いたいのはアレのことです」と言ったとしよう。

そうすると、あなたは「なんだアレのことですか。ふっふっふ、そうならそうと最初から言ってくださいよお。アレなんですね」と言うが、私が言う「アレ」とあなたが言う「アレ」は別ものだ。

だから、「アレはアレでもソレじゃないんです。私が言いたいのは『ソレでは無いアレ』のことです」と言うと、あなたは「ええっ。そういうこと?アレはアレでもソレじゃないアレなんですか。やっとわかりました。ソレじゃないアレですね」と言うが、この場合、「ソレ」の意味は通じているが、依然として「アレ」については誤解があって、私が言う「ソレじゃないアレ」とあなたが言う「ソレじゃないアレ」はやはり別ものだ。

「その『ソレじゃないアレ』とは違う話をしてるんですよ。『ソレじゃない上にコレとも違うアレ』なんですが…」これをずっと続けていくと、ラカンデリダになってしまう。

人は常に「どうしても知りたくない知識」から逃げ出そうとしている。「どうしても知りたくない知識」を突き付けられた時、全力でそれを誤解しようとするから、その誤解を防ぐ為に、ウナギ対ウナギつかみのような戦いになって、結局、読者が勝ってスルスルスルと逃げてしまう。20世紀の哲学はウナギを逃がさない為に武装しているうちに難解になったのである。だが、「どうしても知りたくない知識」の存在を意識すれば、簡単にわかる部分もある。

「アレ」とはたとえば「我々はグーグル八分の何に怒るのか」という疑問に対する答えである。

グーグル八分をグーグルが本当にやっていると知った時、私は「それは裏切りだ」と思った。グーグルは何を裏切ったのだろうか。

グーグルは、機械の計算した検索結果を人の手でねじまげた。機械が検索結果に出すはずだったページを、人が消してしまった。そのことを、私は「裏切り」だと思った。

「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ向かうのだ。」という素朴さが、あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに「人間の意図」を隠蔽しているね。ということです。これもベタな幻想だね、ということです。

グーグルの中の人が書いたプログラムなら信じられる(受けいれる)けど、グーグルの中の人が誰かからの圧力によって打ち込んだ削除コマンドは信じられない、受けいれられない、私が感じたショックの意味はそういうことになる。もちろん、私は今のグーグルを全肯定するわけじゃない。グーグルから不当な干渉を排除できたとしても、グーグルのアルゴリズムは未完成であって、たくさんのバージョンアップを必要とすることは認める。だが、そのバージョンアップの行きつく先にはユートピアがあると私は思っている。

バージョンアップすべき改良点はたくさんあって、『ソレじゃない上にコレとも違うアレ』について考えているうちは、目的地のユートピアのことを考えなくてすむ。そのようにして私は「どうしても知りたくない知識」を回避している。

問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。そしてこの「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えることをわかっているフリをしながら、僕たちは生きているのです。

「私と他者はどのようにも繋がっていない」ということが、「どうしても知りたくない知識」であって、そこから逃げる為に私は「アレですね」と「社会」がわかったようなフリ、私と他者との間を「社会」が接続しているようなフリをして、その「社会」をスペックとして正しいグーグルのアルゴリズムを書くことが可能であるという「錯覚」にしがみつく。

ジジェク的にいえば、「この幻想の向こうに本当の「現実」があるわけでなく、この幻想自体が「現実」そのものを形成している。」ということでしょう。

「正しいグーグルのアルゴリズム」が「錯覚」であるとブログに書けば、そこから集団知が働いて「錯覚」でない「正しいグーグルのアルゴリズム」が生まれると私は思っている。

ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がる可能性、「断絶」が消失する可能性として欲望されます。そしてグーグルの「人間を介さず」というキーワードは、これとまったく同様な意味です。「人間を介さず」、すなわち「断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。

「錯覚」でない「正しいグーグルのアルゴリズム」を望むのは、「『断絶が消失する』という欲望」なのだと思う。どうしてもそれについてはわかりたくないのだ。

グーグル八分」は20世紀の核戦争と同じように回避できない現実的な問題であり、それが、「どうしても知りたくない知識」に向きあうことを強いる。ラカンデリダのような最高の知性だけがたどりついたその問題に、誰もが簡単にたどりつけるのが21世紀である。ネットの中に人は「どうしても知りたくない知識」を見て、それを誰かに投影して抹殺しようとする。「あいつさえいなければ断絶が消失する」と思うのだ。その時我々はラカンデリダのように冷静ではいられなくて哲学ではなく罵詈雑言を吐き出してしまう。

グーグルの中の人が作り出す魔法のアルゴリズムは理系的に一番難しい問題であり、グーグルの中の人が作り出す「『断絶が消失する』という欲望を想起する魔法の言葉」は文系的に一番難しい問題であり、ネットを使ってる限り、どちらについても知らんぷりはできないのが困ったことである。

(追記)

「20世紀の哲学〜簡単にわかる部分もある」の記述を入れ忘れていたので、後から追加しました。