デジモノに埋もれる日々: 「大衆は無知であれ!」 - メディアが作り上げる知の格差とマッチ・ポンプ

文句なしに名エントリ!


「大衆が賢くなるなんて、どうにも商売のやりづらい世界になったもんだ」

という結論(マスコミのホンネ)まで、氏家氏のインタビューから地道に積み上げている。鮮やかです。

これが、単にマスコミがイバることが出来なくなるということではなくて、民放の根幹を揺るがす、ある“深刻な”事態(1)〜テレビCMの限界が見え始めたにあるように、お金の話に直結してくるから、マスコミにとっては本当に大変な事態なのでしょう。

これは、ある意味、何度も繰り返されてきた問題で、ローマ法王庁も、ローマ元老院も、同じ問題で悩んでいたようです。

これに対して、マスコミがどう対応して何が起こるか私なりに考えたエントリーです。

これからテレビがネットに乗り出して、ネットの「テレビ化」を進めようとするでしょうが、その時、テレビが何をするかと言えば、「ネットからのテキスト排除」だと思います。「テキスト」と言っているのは、中心がなく相互に参照しあうテキスト群のことで、World Wide Web(世界規模で張り巡らされた蜘蛛の巣)という言葉が、もともと意味していたものです。

マスコミのマッチポンプを邪魔しているものは何か、それを本質的に考えたら、「テキスト」の相互参照の仕組み自体を破壊しようとするでしょう。

たとえば、松永さんが「きっこの日記」を最初から一通り読破しつつあるそうですが、


2000年10月に始まって、もうまる5年分、その間、ほとんど毎日といっていいほど緻密に書かれている日記は、明らかに一人のヘアメイクの実在を示しているように思う。

と言う松永さんのサイトを、誰かが最初から一通り読破して、その判断の信憑性について論評するかもしれません。松永さんのレポートは楽しみですが、どういう結論が出るにせよ、その信憑性は、松永さんのサイトのアーカイブとそれらをリンクする膨大なブログ群によって支えられています。こういうことが、複合的に連鎖して起こって、全体が情報ソース(「デジモノに埋もれる日々」さんの表現を借りれば「情報ポートフォリオ」の銘柄)になることが、テレビにとってマズいのだと思います。