Web2.0にはオープンソースのOSDに相当する核がない

コメントをいただいたjounoさんの問題提起を私なりにやや乱暴に翻訳すると、「Web2.0オープンソースのようにならなくてよいのか?」ということになります。

オープンソースには、オープンソースの定義という核があって、「一様に曖昧」になることを防いでいます。もちろん、この定義のことを知らなかったり無視したりして、好き勝手に「俺定義」で議論したり、変な組織を作ったりする人はいるのですが、それが実際の行動に移る時点では、必ず、このOSDと突き合せることを要求されます。

たとえば、IBMオープンソースに関わっていく過程では、プレスリリースとか偉い人の講演とかでは納得しないプログラマがたくさんいて、「能書きはいいから、ライセンスはどうなると?」という目がたくさんあったと思います。結局、OSDに準拠したライセンスで開発したソフトをリリースしたから、その貢献は一定の評価を得ていますが、そうでなければ、オープンソースコミュニティ全体におけるIBMの位置は全然違ったものになっていたと思います。実際、マイクロソフトの「シェアードソース」は、OSDに適合しないので「オープンソース」ではないとされてます。

オープンソースに対する思いやイメージは多様であり、経済的な文脈、社会的な文脈、技術的なな文脈等たくさんの文脈で語られますが、中核にあるライセンスを共有していることが、個人個人の力が分散したり暴走したりすることを防いできたのではないかと、私は考えます。

オープンソースに批判的な人にとっても、OSDやその源流のGPLを批判することで、建設的な議論ができます。少なくとも、ライセンスに関わる議論は、すれ違いにはなりません。


始発が多義的であいまいなものであるのはかまわないのですが、それがだんだんと固まっていく、ということが、議論の流れを見ているとどうも意図的に避けられている、あいまいなままにとどめようとされている、という感じがします。

Web2.0においては、このOSDに相当するものが無いし、それを作ろうとする動きも見えないという意味では、私もその通りだと思います。そういう意味では、Web2.0オープンソースのようになってないことには同意します。

しかし、私にとっては、Web2.0オープンソースのようでないことは問題とは思えません。確かに、それは生産的でないし、無駄な誤解やどうどう巡りも発生しますが、それを上回る潤沢なリソースが提供されていると思うからです。プロプライエタリなソフト開発と比べてオープンソースは、富豪的で無駄が多いのですが、Web2.0はさらに富豪的だと思います。それは時代が要求する必然ではないかと思います。

また、このあたりは、kajougenron : hiroki azuma blog: 解離的近代の二層構造論の、「動物的原理と人間的原理」につながる話のようにも思えます。


分かりやすくいえば、近代哲学が動物的レベルと人間的レベルの統合を目指してきたのは、近代社会がそのような統合を前提として社会秩序を組み上げてきたからだ(ポストモダニストの「人間の消滅」という言葉は、この統合の消滅という風に理解すべきだ)。そして同じように、ここで僕がその統合の廃棄を提案しているのは、現代社会がすでにそれを廃棄して動き出しているからだ、ということになる。つまり、動物的レベルと人間的レベルの解離は、すでに僕たちの社会のなかで進んでいることなのだ。というわけで、それを導入したほうが社会の理解もスムーズに進む。

私も、「解離」ということはすでに相当程度進行しているのであって、Web2.0が主体や明示的な意味の核を書いたまま物凄いスピードで進むのは、それを素直に反映しているのではないかと思います。だから、それを対象化する為には、むしろ、それが貫徹された方が望ましいような気がしています。

私にとっては、とにかく面白いからそれに参加したいと思っていろいろ書いたりしているだけで、こういうのは後付けの理屈です(こういうことを考えることは面白いですが)。しかし、jounoさんにこう聞かれて考えてみると、私は主体というか、(意識的な)人格の統合ということにあまり執着がないので、簡単に乗れるのかもしれません。