ひきこもりと東トルキスタンの「当事者」性と「ソーシャル」ブックマーク

論点ひきこもりという新しくできたサイトに、上山和樹さんインタビューがありました。私の、フォルダー的な帰属とタグ的な帰属という記事のきっかけになった、Freezing Point -  「属性当事者」を卒業することというエントリーの解説のようなインタビューです。

「属性当事者」「課題当事者」という概念、あるいは、「当事者」という問題は、他のいろいろな問題でも引っかかってくる重要なテーマだと思います。

例えば、梶ピエールのカリフォルニア日記。さんが、2ちゃんねるの、東トルキスタンの人々に平和と自由を運動に、一定の共感を示しつつ、以下のような懸念を表明されています。


「人権抑圧反対」はいいとして、東トルキスタン独立運動ウイグル人による一枚岩の「民族自決」要求の運動としてとらえるのはあまりにナイーブで、危険でもある。簡単に言えば、そういった立場は、地域の中に住む漢族とウイグル人以外の諸民族(カザフ人、キルギス人・・)のことを全く考慮に入れていないし、またウイグル人社会内部に存在するあまりに大きな意識の隔たり(漢族ともなんとかうまくやっていきたいと思うものから、あいつらブッ殺したる、というものまで)も無視されている。

極東ブログ: [書評]「多民族国家 中国」(王柯)を見ても、この問題の難しさはわかってきますが、それを言っていたら、誰にも何も言えなくなります。例えば、チベット問題に詳しい人がその知識だけでこの問題を論じていいのか、と言ったら、やはりチベット東トルキスタンには違う事情があるでしょう。

梶ピエールさんは、その直後に「批判をするな」ということではないとおっしゃっていますので、重要なことは、次の問題ではないかと思います。


要するにその「支持」が本当にそこに暮らしている人々のためになっているのかどうか、という内省がないことが気になるのだ。

そこに暮らしている「当事者」への共感を、「属性当事者」ととらえると、この指摘は、抑圧的に作用するかもしれません。

つまり、さまざまな民族がいて、政治的な立場もさまざまな「当事者」の誰に対して「内省」したらいいのか、「東トルキスタン」というフォルダーに「独立派」「現状肯定派」というサブフォルダーがあって、その中に、「過激派」「中間派」というサブフォルダーがまたあって、そのどこに共感したらいいのか。

そういうことを考えていたら、慎重な人はフォルダーの切り方を考えるばかりで何もモノが言えなくなるし、軽率な人はサブフォルダーの名称を巡って内紛を起こすでしょう。

しかし、これを「課題当事者」への共感と考えると、そこには、女性の問題として考えるという切り口からパワーポリティクスに翻弄される小国という見方まで、さまざまな切り口があります。それぞれに「課題」があって、「課題」ごとに「内省」の仕方は違うでしょう。

自分の関心をある「課題」に限定した上でも、「そこに暮らしている人々のためになっているのかどうか」という内省は可能だと思います。それを許容する「課題当事者」としての「内省」を促すのであれば、この指摘は抑圧的でなく、まさに運動を方向をよりよい方向に向ける言葉になります。

もちろん、そこにタグを貼る対象が「課題」ではなくて「課題当事者」であるという意識、つまり、それはURLでなく「人」に関わる問題であるという認識は常に必要です。ただ、「人」に関わることが「属性当事者」への関わりということだけを意味しているとしたら、「ひきこもり」も「東トルキスタン」もあまりにも遠い問題で、「当事者」以外にはうかつに手が出せない問題になってしまいます。

何もしないことや何も考えないことが、ネットに自由にアクセスできる立場にいる我々にとって正しいこととは思えません。

「タグ」という概念が、ただのブックマークでなく、ソーシャルブックマークで一般化したことには、重要な意味があると私は思います。それは、「課題当事者」が自分の「課題」というタグによって、「当事者」に手をさしのべていく、それが並行して連動していく、そのプロセスのメタファーとして機能しているのではないでしょうか。

そのメタファーは、「属性」によって分類されるフォルダーには自分ひとりしかいない、という実感を持つ我々が、まさに必要としていたものだから、その新奇な機能が容易に理解され広まったのだと思います。